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「大森さんちの家出」第1話

窓の会社で研究員をしている大森さんと、広告代理店で働きながら小説家を目指している奥さんは結婚2年目。理系の大森さんには文系の奥さんの考えることは不可思議だ。大森さんから見ると、奥さんはいつも心がせわしない。ある日、奥さんが消えた。奥さんには忘れられない恋人がいたことを、大森さんは知らない――。


1、大森さん

 メダカはマツモとガラス壁の間に挟まるようにして、なんとか自分の身体を支えながら、小さなエラをヒクヒクと動かしていた。
 大森さんは最初、「あ、死んだ」と思って、手に持った家の鍵をテーブルに置き、メダカの死体を掬おうと指を入れた。その波に驚いたように、メダカはひらひらと横倒しに泳いで逃げた。瀕死のメダカに無駄に体力を使わせてしまった。
 大森さんはそっと指をガラス瓶から抜いて、「ねぇ、メダカがもうダメみたいだよ」と、仕事部屋にいる奥さんに声をかけた。

「んー」奥さんはこちらを見ずに一文節ほど文字を打った後、思い直して回転椅子ごと振り向いた。

「どうなってるの」

「横倒しになって、動かない。でも、エラは動いてるから死んでるわけじゃないけど」

 奥さんは一瞬迷った後、立ち上がり、ガラス瓶のそばへ来た。大森さんは「あ、来た」と思う。
 奥さんに構って欲しくて呼びかけたわけじゃないのに、なぜかこういう時、「ご足労」という言葉が浮かぶ。今の奥さんにはそれくらいの重鎮感がある。二人で並んで覗き込む。メダカは体を斜めにして、喘いでいる。

「これは、老衰だね」

 スマホで検索した大森さんは、画面を奥さんに見せて、

「転覆病じゃない?」

 奥さんはお愛想程度に画面を見て、首を振った。

「老衰だよ。だから、哲くんのせいじゃない」

 そんな風に思ったわけではなかったけど、そういえば、メダカ係は自分だった。

「もうこの子、三年くらい生きてるから。前の家からだもん。寿命だよ」

 奥さんはそれだけ言うと、伸びをした。腰のあたりがコキッと鳴る。それから大森さんを一度見て、もういい?という顔をすると、パソコン部屋へ引っ込んだ。

 どうしてなんだろう。何度も言うけど、別に大森さんは、奥さんに構って欲しいわけじゃないのだ。
 大森さんは、「メダカ 元気ない」で検索する。「1リットルの水に対して2~3グラムの塩を入れると良い」とある。目分量でガラス瓶の容量を1・5リットルとして、スケールで3グラムの塩を測る。瓶から取った水で溶かし、注ぎ入れる。箸でかき混ぜると、水流に抗うようにメダカがひらひらと泳いだ。
 しばらくすると、反対側のマツモにもたれかかって、じっとしている。また体力を使わせてしまった。大森さんは、手を洗い、鍵を掴むと、パソコン部屋に顔を出した。

「行ってくるよ」

 奥さんは、回転椅子ごと振り向いて、「寂しいな」と言った。

 大森さんは土曜日になると、どこかしらへ出かけるようにしている。それは奥さんが「一人にして」と頼むからだ。

 奥さんは広告代理店に勤めながら、小説家を目指している。大森さんと出会う少し前に地方の小さな文学賞の佳作をもらったこともある。ついでに言うと、大森さん自身は窓を作る会社で、窓ガラスの新素材や窓につく汚れの研究をしている。

 二人は一昨年の秋に結婚した。コロナ禍で式もハネムーンもなかったが、まだまだ新婚と言ってよい。だから「一人にして」と言われた時は、大森さんはちょっとがっかりした。

 大森さんの奥さんに言わせると、「書くときは孤独でなければいけない」そうだ。大森さんは、奥さんと結婚する前は、千葉は野田市、堤原一丁目の会社が借り上げてくれた1Kに一人住まいで、そもそも家にいてもずっと黙ってネットの芸能ニュースを見ているか、ずっと黙ってゲームをしているかだったので、現在の家・柏の夕陽丘二十六番地アザミテラス三〇四号室の2LDKの二人の新居で、奥さんに一部屋を明け渡し、自分は寝室にひっこんで、その独身時代の無言の行を続行しても、大森さん側には何ら問題はないのだけれど、奥さんは、大森さんがせっかくの土日にそうやって一人で時間を潰しているのを見ると、「罪悪感」を感じるのだそうだ。

 罪悪感も何も、君と結婚したからこうしてるわけじゃなく、結婚前からこれが僕の休日スタイルなんだけど、と思うけれど、とにかく奥さんは、たとえ壁一枚隔てていても、大森さんが一つの音も立てずに、心からその時間を楽しんでいたとしても、大森さんがそこにいるというだけで、気にかかるのだと言う。

 大森さんは、これが女性の共感脳というものか、と大学時代に読んだ「SCIENCE」の記事を思い出す。女性は左脳と右脳を繋ぐ橋である「脳梁」が男性よりも太く丸みを帯びていて、そこの情報の行き交いが男性より盛んで、事実に感情を伴わせて考えるのだそうだ。だから、大森さんの存在を、感情を排した存在とカウントすることはできず、いろいろと気持ちを想像して、苦しくなってしまうのだろう。

 大森さんは大森さんで、理論的に分析することでショックを和らげる癖があった。

 本当は気づいているのだ。奥さんが「一人にして」というのは、小説を書くためじゃない。ただ、一人になりたいからなのだ。なぜなら、コロナ禍の前はそんなこと言わなかったから。

 コロナ禍になって、大森さんも奥さんも週三~四日はテレワークになった。最初はダイニングテーブルで向かい合わせにノートパソコンをカチカチやっては、大学の自習室みたいだね、なんて話していたのに、どうやらこの働き方がずっと続くらしいとわかると、奥さんはにわかにそわそわし出した。

 夜中にずっとスマホで何かを検索しているな、と思ったらある日、パソコンデスクと回転椅子の画像を見せられ、「これ買おうと思うんだ。ほら、私、しょっちゅう仕事の電話かかってきちゃうから。あっちの部屋に置いていいかな」と言う。
 大森さんだってダイニングテーブルでのパソコン仕事は腰が痛くて、パソコンデスクをいくつも【お気に入り】に入れていたが、それらはすべてツインデスクだった。

「僕もダイニングテーブルは腰が痛くてやなんだけど」

 大森さんはちゃんと言ってみた。すると、奥さんはそれもすでに想定していたらしく、「そうだよね。哲くんは寝室を仕事部屋にしたら? こんなの見つけたの」と、「折り畳みワークデスク」なるものを見せられた。

――まぁ、ようするに、僕が邪魔なんだな

 そのことに自分は傷つくのかどうか、自問するも、大森さんにはわからない。というか、自問というものをあまりしないよう気をつけている。まぁ、実際、部屋を分けたほうが都合いいしな、とその時も大森さんは奥さんの提案を受け入れた。

 というわけで、その日も大森さんは、ポケットの鍵をちゃりちゃり言わせながら外に出た。冬の晴れた日は、自分の輪郭がくっきりするようで気持ちがいい。マスクはギリギリまで付けないでおく。駐輪場の自転車に鍵をさし、ガチャンと開けた。その刹那、

――ラーメンデータベース。そうだよ、ラーメン屋めぐりを再開しよう

 大森さんはスマホのアプリを起動した。
 位置データを読み込ませると、どんぶりマークで画面が真っ赤になる。これはしばらくの間いけそうだ、と自転車のサドルに軽くもたれたまま、熱心にレビューを読み始めた。
 
 大森さんは独身時代、まだコロナもやってきていない頃、あまりに暇で、ラーメン屋めぐりを自分に課していた。口コミを真剣に読み解き、あたりをつけて自転車で回る。
 行列が長いほど美味しいとは限らない。豚骨でも魚介でもなく、味噌系を愛している大森さんは、自分に合ったラーメンと出会えることはなかなかない。食べてもレビューを投稿したり、ツイッターに写真を上げたりするわけでもない。友達におすすめするわけでもない。それ以前に、大森さんには友達がほぼいない。ただ一人で、「やっぱりな。美味しいと思ったんだよ」と確認するだけである。

 土日で三杯、というゆるいルールを決めて四か月ほど続けただろうか。大森さんは見事に太った。そして、当時二十七歳にして、メタボ健診に引っかかったのだった。そのタイミングで、奥さんと出会い、「痩せたら付き合ってやってもいい」と言われて、ラーメン屋めぐりをやめた。努力の方向が明解なのは大森さんに向いている。ピーク時は七十九キロあった体重は、ラーメン断ちと一日一万歩歩くことによって、二ヶ月後、七十四キロに。奥さんとめでたく付き合うことになり、ラーメン屋めぐりは途絶えた。

 コロナから3年。デルタだのオミクロンだの次々と新しい株が流行し、最初は海外の論文までチェックしていた大森さんだが、今では「知らんがな」という気分になっていた。その気分は二か月前、奥さんがコロナ陽性となり、続いて大森さんも陽性となって、それほど劇的な症状もなく治ったことから決定的になった。それはみんなも同じのようで、街には人が戻り、こんな時代だからこそと誰かに唆されたのか、ラーメン屋Aの跡地にラーメン屋Bが、ラーメン屋Cの跡地にラーメン屋Dが、サメの歯のように間を空けず生え変わっていた。

おでい【星4.2】

 味噌の深みを引き出すのは和牛ひき肉に潜んだオイスターソース。名店「七星」のもとで四年修行した店主による、味噌系専門店。「七星」と同じく、新潟の巻浜味噌をベースに、独自のアレンジを加え、新しい感覚の味わいに。

 この店が良さそうだ。奥さんがいたなら「汚泥?」とツッコミが入っただろう店名だが、大森さんはとくに何の疑問も感じずに、川向こうへと自転車をこぎ出した。さっき水で濡らしてなでつけただけの髪にすっと冷たい風が通る。遠赤外線のようなポカポカとした日差しが、せっせとビタミンDを体内に合成する。

――メダカも、日の当たるところへ出しておいたほうがよかったかもなあ

 漕ぐ足ごとに進んでいく単純な自転車を、大森さんは愛している。

――あの子も、外へ出かけたらいいのにな

 奥さんは、結婚前は平日の夜に小説を書いていて、休日二日のうちどちらか一方は大森さんを連れていろんなところに出歩いた。美術館では大森さんはあくびをこらえるのに必死で、映画館では必ず主要キャストが揃わない段階で眠ってしまい、怒られた。それから奥さんも考えて、釣り堀やスケートなど、大森さんが眠らないで済む場所に連れて行った。

「楽しい?」というのは、奥さんの口癖だ。
 大森さんは、楽しかった。釣り堀やスケートはもちろんだが、美術館や映画館だって、大森さんなりに楽しんでいた。美術館は広々として、自分の音のしない足音と小さなかかとの奥さんのコツコツとした足音の重なりを聞くのが楽しいし、時々「わっ!」と叫び声をあげたくなる静寂感も好きだ。そして、映画館でポップコーンの匂いを嗅ぎながら眠るのは、とてもとても気持ちいい。悲しい映画も可笑しい映画も両方気持ちいい。

「楽しいよ」

「じゃあ、楽しそうな顔してよ」

 奥さんは小さな手で大森さんのくるくる縮れた腕の毛を引っ張りながら、不服そうに言う。
 大森さんは、楽しいと思っているのに、自分の顔が楽しそうではないのは、どういうメカニズムなのか、自分でもわからない。そこでとりあえず口角を上げてみるのだが、奥さんはその顔が面白いらしく、嬉しそうにまた、腕の毛をひっぱるのであった。

 いくら脳梁の幅が狭い、「SCIENCE」でいうところの理性と感情が分断されている大森さんだって、奥さんがこんな大森さんを憎からず思っていることはわかる。だから大森さんは、奥さんと出かけるのが楽しみだった。

 だけど、コロナがやってきて、土日のお出かけはなくなった。代わりに動画配信サービスに入り、土日は奥さんがセレクトした映画を観る。すると、奥さんの口癖が進化した。

「どうだった?」

楽しかったよ、面白かったよ、と答えても、奥さんは許してくれない。

「どこがどんな風に? もっと具体的に」

 その口調は小学三・四年の時の担任・窪薗先生(くぼ菌と呼ばれていた)にそっくりだ。夏休みの絵日記、作文の時間、読書感想文。いつもいつも言われていた。

「どこがどんな風に? もっと具体的に」

 しどろもどろになって俯くと、くぼ菌はこれ見よがしな、ため息をついた。くぼ菌は歯が黄ばみと銀歯と死んだような灰色の三色で構成されていて、吐く息は毒ガスだと噂されていたので、うつむいたつむじにかかるそれに、幼い大森さんはぞくっとした。

 奥さんの吐く息はもちろん毒ガスではない。だけどもう腕の毛は引っ張ってくれない。今は、大森さんが何も答えないでいると、奥さんは悲しい顔をして、それ以上は何も起こらない。
 大森さんは何か重要な問題の選択肢を間違えたような気がして、もう一回聞いてくれないかな、と思う。でももう一回はないし、そのうち、奥さんは一人、スマホで映画を観るようになった。

 どうやら奥さんはいろいろスランプらしいのだ。「スランプ」とか、いかにも格好良くて大森さんはちょっとうらやましい。だけど、そのスランプが自分と結婚したせいなのかもしれない、と思うと、晴れた日の自転車漕ぎもしょんぼりしたものに思えてくる。

 あっさりと「おでい」に着いた。

 えんじ色の暖簾が白く「おでい」と染め抜かれていて、割烹か料亭を思わせるヒノキの引き戸だ。間隔を申し訳程度に開けて人々が並んでいる。

――十二時四十八分か。昼のピークからはもうちょっとずらしたかったけど

 並んでいるのは六人。先頭は、五十代くらいのハゲたおじさん。二、三番目は二十代のカップル。四番目はバイク便のジャンパーを着込んだ大森さんと同い年くらいの小男。五、六番目は中年の夫婦。みんなマスクをして表情はよくわからない。大森さんはズボンのポケットに両手を突っ込んで、最後尾についた。

――こういうお店は女子受けはするんだけど、どうだろうな。味はいまいちパンチが弱いことが多いけど。だいたい具に水菜入れてくるんだよな。

 大森さんは前にいるおばさんの薄くなった頭頂部を見た。白髪が途中から茶色になり、そのあと、こげ茶になっている。髪の毛は滑らかでなく縮れていて、黒いゴムで束ねてあった。おばさんの手では毛染め液が届かなかったのか、後ろの方に染色の甘いところがあり、ムラになっている。

「テレビに出たんだってよ」

 おばさんは半歩前に立っているおじさんに言う。妙に張った声なのは、マスクで聞き取りづらいのを気にしてだろう。おじさんは黙って地面を眺めている。

「さっきドア開いた瞬間に見えた。芸能人のサインいっぱいあった」

 おじさんはうつむいたままだ。おばさんは慣れているのか全く気にせず、「テレビといえばね、横森さんとこの長男いるっしょ。あかりと同級生の。あれ、ホストになったらしいよ。それがびっくりなんだけど、横森さんがワイドショー見てたら、なんかニュース? の意見いろんな人に聞くコーナーあるでしょ。あれに、ホストにも聞きましょうって感じで息子が出てきたんだって。大学行ってると思ってるからさ、もうびっくり、がっかりでさ」

 横森さんを知らない大森さんでも、「へぇ」と思った話題だったが、おじさんは相変わらず微動だにしない。ダウンジャケットの立てたえりに埋まるようにして地面を見ているだけだ。

 時々瞬きをするが、もしかしてあれが相槌の代わりだろうか。大森さんは、長年連れ添った夫婦だけにある、あうんの呼吸があって、おばさんは無視されているのではないと思いたかった。おばさんの後頭部の色ムラをおじさんは気づいているだろうか。

――そこだけ変な色なんだよ。おそらくおばさんは五十肩で腕が後ろに回らないんだ。おじさんの出番じゃないか

 かくいう大森さんは、時々奥さんの白髪を抜いてやる。六つ上の奥さんは、肩までの綺麗な黒髪だけど、時々こめかみや前髪のあたりに太くて硬そうな白い毛が顔を出す。
 「一本十円ね」と奥さんは言って、ソファに座った大森さんの脚と脚の間に収まる。大森さんはテレビを見ながら奥さんの白髪を抜く。抜いた白髪の根元には、皮脂でコーティングされた毛根がある。つやつやとしたそれは、元気そうに思える。メラニン色素の受け渡しがうまくいかなくなっているだけで、毛自体は死んでいないのだ(いや、毛は死んだ細胞なんだから厳密に言うとこれはおかしな言い方だ)。もちろん代金はもらったことがない。

 大森さんは猿のノミ取りのような格好で、奥さんの白髪を抜いている時間が、夫婦然としていて好きだった。

 大森さんの「好き」は単純だ。単純に奥さんのことが好きだった。

 しかし、奥さんは大森さんが交際を申し込んだ時でさえ、「付き合ったらきっと私のこと嫌いになるよ」とか、「人は誰でも一人だし、一人であることを守ることが自分であること」だとか、とにかくややこしいことを言った。
 唯一理解できたのが、「痩せたら付き合ってもいい」という言葉で、その奥さんの口ぶりに、うっかり大森さんはフラれたと思ったほどだ。

――仕方がないよな。脳梁の太さが違うんだから

と、大森さんは理論で理解しようとする。大森さんは、大森さんが思ったこともないことを一人でバタバタ忙しそうに考えている奥さんを、なんとなく「えらい」と思っていた。
 尊敬している、というのは言い過ぎで違うのだが、「えらいなー」と思っていた。大森さんの故郷では、「えらい」というのは、「偉い」の他に「疲れる」「たいへん」という意味もある。そのどの意味も重ね合わせた「えらい」だった。

 いつの間にか列は進んで、いよいよおじさんとおばさんの番になった。ガラッと戸が開き、店員の「アリヤトヤンッサー」という声に送られて、大森さんと同じくらいの歳の男が一人出てきた。すると、おじさんはためらうことなく戸の内側に入り、後ろ手で閉めた。

「それが来てんのよ。きてるきてる。私の場合は鼻じゃなくって頭痛なのね。花粉症には甜茶が良いって言うじゃない。でも、頭痛にも効くんかねえ」

残されたおばさんは、なおも喋っている。ぎょっとしてよく見ると、イヤフォンマイクで遠くの誰かと電話しているのだった。

――夫婦じゃなかった

 大森さんはこの勘違いを奥さんに話したいと思った。「おばさんもイヤフォンマイクなんてする時代になったよ」と話すところを想像し、想像した途端、なんだか、興味を持ってくれそうにない気がして、厭になった。

 自分は結婚する前、こうだっただろうか。院を卒業し、窓の会社に就職して、そのうち本社異動になって上京した。もともと少ない友達とは離れ、することがないからラーメン屋を巡った。何かは、考えていたはずだ。時々、ちょっと面白いことも起きていた、はずだ。自分はそういう時、浮かんだ考えを誰かに伝えようとしていただろうか。伝えられなくて、物足りなさを感じていただろうか。

 おでいは、大森さん的には★3.4といったところだ。和牛の油にオイスターソースが馴染んで、確かにうまかったが、味噌を殺してしまっていた。何だか中華風に仕上がって、担担麺に近接しすぎていた。ただ、あそこに来て小松菜は嬉しかった。あのスープには確かに、ほうれん草でもチンゲンサイでもなく、小松菜だろう。大森さんは自転車にまたがって、漕ぎだすと、何を食べたんだろう、と奥さんのメニューを思った。スマホを見ると十三時三十六分。早すぎる。

――この後、どうしようか、メダカが気になる。そうだ、メダカが気になるし、ちょっと帰るだけなら、邪魔にもならないし。ちょうどご飯を食べるところかもしれないし、そうだ

 大森さんは、スーパーに寄って夕飯の材料を見てから、戻ることにした。もしかしたら奥さんがお昼をまだ食べていないかもしれないと、焼きそばセットもカゴに放り込む。

――食べちゃってたなら、明日食べればいいし

 ただいまを言わずにドアを開ける。ガシャガシャとレジ袋の音を立てながら靴を脱いでいると、いつも奥さんは飛んできて、「おかえり」と言う。そして大森さんの耳たぶやら手やらを触って、「ああ、冷たい。ありがとう」と言う。

 ありがとう、一人にしてくれて、という意味だ。なんだか自分が忠犬のようで嫌になるので、大森さんはあれが嬉しくて嫌だ。「うれしいや」とでも言うべきか。でも、今日は違った。ドアを開けても、靴を脱いでも、レジ袋を玄関に置いても、奥さんは出てこない。とうとう大森さんは、「ただいまー」と言ってみた。返事はない。レジ袋を持ち直し、冷蔵庫の前に置く。シンクを覗くと、昼ごはんを食べた形跡はない。やっぱり焼きそばを買ってきて正解だ、とキャベツを取り出してまな板の上に置く。ピカピカのキャベツは力強い。いかにも生活という感じがする。

――小松菜の代わりにキャベツもいいな。でもそれじゃ完全に担担麺か。

 思い出して、ダイニングテーブルの上のガラス瓶を見ると、メダカが白くなって腹をこちらに向けて浮かんでいた。大森さんは、じっと見る。エラはもう動いていない。脊椎をへの字に曲がらせ、口はわずかに開いている。大森さんは、のっそりとパソコン部屋の前に立ち、ドアを開ける。

「メダカ、ダメだった」

 回転椅子は振り向かなかった。奥さんは、消えていた。

〈つづく〉


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