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「大森さんちの家出」第5話

5、タケオ

「阿佐ヶ谷飲み屋さん祭り」は、三千八百円で全協賛店の一杯がタダになるチケットが六枚ついてくる。その日はおつまみもワンコイン以下になり、おつまみ無料券も二枚ついてくる。さらに飲み屋以外の、古本屋や古着屋、お茶屋、雑貨屋などのサービスが受けられるよりみち券も三枚。
 テルミは駅に貼られたポスターを見て、これならタケオも一緒に来てくれるのではないかと思った。
 
 ずっと、デートをしてなかった。前売りは三千五百円。三千八百円のイベントより、三千五百円のイベントなら、なお、タケオが「行く」と言う確率が高まると思い、テルミは阿佐ヶ谷で降りて、チケットを二枚買った。

 かくして当日、彼女は後輩のヤマジの恋愛話を聞いていた。
 マッチングアプリで知り合った男の子とその日にホテルに行ってしまい、それで終わりかと思ったら、次の日からもメールのやりとりが続いていて、今度二回目のデートをする。

「今度は昼間のデートにしなよ。もう、やっちゃダメだよ」「でもメールくれるってことは、その子も本気なのかもしれないね」などと、ヤマジの喜ぶようなことを並べて、テルミは彼女の目を携帯からそらすように努めた。
 でも、ヤマジは彼からのメールがいつ来るか今来るかと、始終、膝に置いた携帯の通知画面に目をやっていて、それを首をのばして見つけてしまう自分が嫌で、テルミはまた、彼女の喜びそうなアドバイスを探す。

「あ! 例の彼からメールです」とうとう彼女は、嬉しそうに携帯を取り出した。

「えー、見せて見せて」と言うしかなくなって、見ると、【今やっと仕事終わった。これから下北で飲めたりしない?】と書いてある。

「え、あ、行ってきなよ」

「えー、でも、今日は先輩と飲むんですから」

「いいよいいよ、本当は行きたいんでしょ」

 ヤマジはえへっとえくぼをへこませた。

 ヤマジを改札へ送ったあと、協賛店をなんとか二店舗回っても、まだよりみち券があと一枚のこっている。
 もらった協賛店マップを開き、テルミは金魚屋へ寄ることにした。飲み屋街を離れ、ゴッホのカフェの絵みたいだった通りは終わり、ただの住宅街になる。ドロボウよけの人感センサーの明かりが、彼女が通り過ぎるたびに、ちらちらと灯り、それに勇気づけられて少しずつ進む。
 静かに雑草がそよぐ駐車場があり、その隣に金魚屋はあった。車庫のような建物の奥から、水槽の青い光がちろちろと燃えている。ゆっくりと黒い影が動いて、店主が現れた。

「あの、飲み屋祭りの……」

 店主は、腰に挟んだタオルで手をふきながら出てきて、「はいはい」と思ったよりほがらかな笑顔で手を差し出す。テルミは一瞬、手を取って踊りを踊るのかと思ったが、そんなわけはなく、ちぢれたチケットを彼の分厚い手の上に置いた。

「昼間はちらほら来たけどね、もう閉めてもいいかと思ってたから、お客さんぎりぎりセーフだよ」

 店主は一番手前に置かれたメダカの水槽にビニール袋を入れて水を入れる。その闖入者にメダカがいっせいに体を翻して逃げ、それがLEDライトに反射して水槽全体が光る。今度は柄杓を入れて、器用にメダカをすくい、ビニール袋に入れる。

「ヒメダカ、アオメダカ、シロメダカ」

 三匹のメダカが入り、店主は指をさして教えてくれる。ヒメダカは姫ではなく、緋色の「緋」らしい。それから酸素をボンベから充填した。
 キシューッと音がして透明の袋がパンパンになり、その口に輪ゴムをあてがって、ぐるんぐるんと袋を回す。すると不思議に輪ゴムはしっかり結ばれている。一連の動作の絶対不可侵な感じに、テルミは一メートルも離れたところでそれを見ていた。急に心配になって尋ねる。

「べつの品種だと、子どもが生まれないんじゃないですか」

「そんなこともないみたいよ」

 夜道でレジ袋をのぞきこむと、ぱんぱんにふくらんだその曲面に、メダカたちはひきのばされたり、寸詰まりになったりしながら、今起こった環境の激変に気づいてないような無表情で泳いでいる。テルミはそのことに、奇妙に安堵を覚える。

 一回目のCM曲のあと、ダダ団地は声がぱったりとかからなくなった。
 事務所はあわててアルバムをリリースしたけれど、ほとんど新規の客をつかめず、それでも大阪のラジオ局が少し流してくれて、1400枚ほど売れた。
 CM曲も入ってるのに、この不調は想定外だった。タケオはライブやデモテープづくりに励んだ。二枚目のアルバムは437枚。三枚目のアルバムの話はいつまでたっても事務所のGOが出なかった。

 家賃はタケオ四万、テルミ二万五千円。食費・雑費・光熱費はテルミ、と決めた家計はぐずぐずと崩れていった。
 タケオが突然、鍋いっぱいのカレーやおでんを作るときは、家賃を滞納しているときだ。テルミは、おいしいおいしい、と食べた後、「今月、食費かからなかったから」とタケオに二万円渡した。タケオは「ん」とか「あーうん」とか言って、それをテーブルの上に置いたままにする。
 でも、次の日、テルミが仕事から帰ってくると、ちゃんとなくなっていた。猫みたいだな、と彼女は思った。

 タケオはだんだん悪くなっていった。
 お酒を飲んで暴れるとか、テルミに暴力を振るうとかではない。寝ている彼女を起こして、延々と、一枚目のアルバムから三枚目のデモまで全曲を聞かせて、感想を求めた。疲れてきて、誉め言葉がかぶったり、一枚目のアルバムより、二枚目のアルバムのほうが言葉数が少なくなると、やっぱり実力が落ちてきてる、とタケオが落ち込むので、テルミはほめるのにもペース配分しなければならなかった。
 一枚目より二枚目、二枚目より三枚目のデモ。だけど決して一枚目もけなしてはいけない。そうしてようやく三枚目の十一曲目あたりまでくると、タケオはうつらうつらとしはじめる。
 テルミは、タケオを布団へ連れていき、その横で倒れるように目を閉じた。意識は一瞬で途切れて、この関係が正しいのか正しくないのか、考える暇さえ与えてくれない。

 テルミは毎週火曜日に小説教室に通っていた。
 仕事をなんとか片付けて駆けつける。決まってその火曜日に、タケオの発作は起こった。二枚目のアルバムを聴かされていた時、あまりの眠気に目を閉じそうになったテルミに、「テルちゃん、小説教室でなに勉強してるん」とタケオは聞いた。

「なにって……。みんなが書いてきた小説講評して、先生の講評も聞いて。あと、今までの受賞作の分析とか……」

「それ、意味あるん?」

「意味?」

「小説って人に教えてもらうもんなん? じゃあテルちゃん、その講評聞いて、それじゃ受賞はできんって言われたら、やめるん。変えるん」

「え、でも自分だけで書いてたら独りよがりになるでしょ」

「ふーん」

 タケオは曲を停めた。

「独りよがりねえ、ふーん。で、出したん?」

「え?」

「毎週教室行って、みんなに教えてもらって、で、テルちゃんどっかに応募したん」

「それは……まだだけど。まだ自分でも納得いってないっていうか」

 最近は、人の作品を読むばかりで、書いてすらない。細切れに浮かんだ言葉や設定を、時々携帯のメモ機能に入れるくらいだ。

「それって教室行ってるからやない? 委縮してるんやわ、かわいそうに。テルちゃん、教室向いてへんわ」
 タケオはテルミの目をのぞき込み、心底気の毒そうに言う。

「……そうかな」

「そうやわ」

 そう言って、タケオはまた曲を再生する。あの不思議な声が頭の中に流れ込んでくる。

 テルミはわからなくなる。実際、小説教室に行っているのは、見返すことのないメモを書いているのと同じで、書かない自分への免罪符のような気もする。
 教室に行きだしたのは、CM曲が決まって、タケオがアルバム制作に忙しい頃だった。「小説は書いてないけれど、その準備はしてる」と自分に言い聞かせるためだとしたら、やめてしまったほうが、お尻に火がついて書けるのかもしれない。

 テルミは小説教室をサボるようになった。
 すると今度は、家に帰るたび、タケオに大きなため息をつかれた。まず、晩御飯は各々で食べようと言われ、そもそも残業が多くてそのほうが楽だったテルミは、これに従った。
 駅から家までの道にある、松屋やフクシンに寄って、食べてから帰る。その時点で二十二時を過ぎているから、もういいだろうとドアを開けても、タケオはパソコンから目を上げて、大きくため息をつくのだった。

「これからは、別々に寝ることにせん?」

「え、どうして?」

「今まではテルちゃんに合わせとったけど、オレそもそも夜行性やねん。夜中に曲作りしたいからさ。でもそれやったらテルちゃん眠れんやろ。だからええよ、オレ、寝たくなったら台所で寝るし」

 そう言って、どこからもらってきたのか、えんじ色の寝袋を見せる。

「そんな……。いいよ、全然起こしてくれていいから、作業をキッチンでして、寝たいときにこっちくればいいじゃん」
 これを許したら何かが決定的に失われるような気がして、テルミは食い下がる。

「いやあ、ええわ~」タケオはへらへらと笑って、「だって、テルちゃん、ほら……くっついてくるやん? オレ、今それどころちゃうやん。わかるやろ」

 諭すように言い、テルミの目をのぞき込んだ。のぞき込まれた目の裏が屈辱で沸騰したように熱くなる。もうしなくなって八か月経っていた。

 そうかと思えばまた別のある時は、タケオはテルミの布団にもぐりこみ、胸へ顔をうずめて、わっと泣く。

「ごめんな、ごめんな、テルちゃん」

 そう繰り返して泣き続ける。熱をもったタケオの頭から、大好きな匂いがする。嬉しさが足先までいきわたり、震えそうになるのをこらえながら、テルミはタケオの頭をなでる。

「なにがよ。謝ることなんてなんにもないでしょう」

 この世の母のような甘い声でささやく。

「オレなんかおらん方がいい。テルちゃんを苦しめるばっかりで、音楽も全然出てこん。なんもなくなった、もう出てこんねん。死んだらええのに」

「そんなこと言わないで、タケオが死んだら悲しい。タケオが死んだら、テルはどうしたらいいの? テルも死ぬしかないよ」

 何度も同じやりとりをしているから、セリフが自動応答みたいに出てくる。でも繰り返しているうちに、熱がこもってきて、テルミも泣き出す。すると、タケオは嬉しそうに、より一層熱を込めて、オレは死ぬよ、死ぬしかないよ、と繰り返す。

――死ぬよ、死ぬよ、死ぬしかないよ

 三三七拍子で囁かれ続けるうちに、うっかり寝てしまい、朝起きるとタケオはタケオで死んでない。テルミが朝一人でねぼけまなこをこすりながら駅までの道をどうにかこうにか歩いていると、

――死ぬよ、死ぬよ、死ぬしかないよ

 と、例の三三七拍子が襲ってきて、テルミは皮肉にもぐんぐん歩けてしまう。眠たさをこらえながら、やっとの思いでお昼休みまでたどりつき、おにぎりをひとかじりすると、あとは机に突っ伏す。首筋あたりがいやに熱いので、振り返ると、ビルの窓に陽が直射している。テルミは窓の外の白っちゃけた空をうらめしく見て、いつか青い車でタケオが迎えにきた日のことを思い出すのだ。

 あの青い車を、タケオは最初、時間貸しの駐車場に停めた。月ぎめの駐車場が決まるまで、と言われ、幾度かばかみたいな額の駐車代を立て替えた。
 そのうち、一日中青い車に乗って、帰ってこなくなった。久しぶりに帰ってきて、問い詰めたら、「駐車場代もったいないから、ずっと運転してれば、駐車せんで済むと思って」と笑った。仕方がないから、テルミも笑った。あの車はあっという間に売ってしまった。テルミは小説教室をやめた。

 ある日、テルミが会社から帰ってみると、テーブルに置いたメダカの鉢とタケオがにらめっこをしていた。

「おかえり」

 タケオはにやっと笑う。

「……ただいま」

 久しぶりにおかえりと言ってもらえたことに、たじろぐ。

 ヘッドフォンをつけたタケオはメダカを見てはノートパソコンに何かを打ち込んでいる。テルミは動揺を悟られないよう、ゆったりとした動作で向かいの椅子に腰かけ、頬杖をつき、メダカを眺めるふりをして、タケオを見ていた。タケオはヘッドフォンを首元におろし、得意げな顔を見せた後、わざと伸びをしてみせた。

「ふあ~っ」

「……何してるの?」

 待ってましたとばかりに、タケオが答える。

「作曲」

「え、うそ、すごい! メダカで?」

「うん、ヒメをAマイナー、シロをF、アオをGにして、その動きにあわせて打ち込んでいったら、面白いんちゃうかと思って」

「すごい!タケオ、天才だよ。え、聴かせて聴かせて」

「いや、まだとりあえずそれ通りに並べただけで、アレンジはこれからなんやけど」

と言いつつも、テルミの耳にヘッドフォンをかぶせる。ヘッドフォンはタケオの汗で少し湿っている。タケオは高らかにEnterキーを押す。

 流れる音楽は低い音でボーっとなったかと思うと、高い音でチロリンとなり、原始的な音の切り貼りの状態で、テルミはこれがどう曲になるのかさっぱりわからない。
 でも、タケオがずっとこちらの表情をうかがっているので、彼女は目を閉じて、少しあごをふよふよと動かして、なんとなくノッているように見せる。それから終わったのを十分に確認してから、ゆっくりと大きく目を開けて、

「すごい! すごい! なんか、水の流れっていうか、流動性? 感じる」

「そお?」

 そのあてずっぽうが合っていたようで、タケオは嬉しそうな顔をし、それが心の底からテルミをほっとさせる。
 タケオは良くなってきているのかもしれない。メダカを飼ってよかった、と涙ぐみそうになり、「着替えてくるね」と慌てて、ふすまの内側へ服を脱ぎに行く。
 ふすまの奥へ行くと、畳の上にはテルミが干した洗濯物が山と積まれていて、触るとぐっしょり湿っていた。

「あ、雨が降っとったから、取り込んどいた」

「ありがとう」と反射的にテルミは言い、言った途端に損をしたような気分になって、しばし、その山の前に座り込む。

「これ、いけると思う? いけるかなあ」

 今日は何曜日だっけ。そうだ、火曜日だ。

「ま、今までにないことは確かやんな!」

 何月だっけ。もう二月か。

「保坂さんに話したら、めっちゃ食いついてくれてん」

 そうだ、梶ヶ谷さん、二次選考通ったって言ってたけど、あの後どうなったのかな。洗濯物の山からタケオのパンツを手に取る。

「ねえ」

 座り込んだまま、テルミは言う。

「ん、」

「結婚、しようか」

「え?」

「結婚すればもっとタケオを自由にさせてあげられると思うんだよね。ほら、私って結構高給取りじゃん?」

「何それ」

「何って、お財布ひとつにすればさ、タケオも安心して制作に打ち込めるでしょ」

「……」

 なんの返事も聞こえないので、ふすまから顔を出すと、タケオはヘッドフォンをして、三匹のメダカを睨んで、静かに泣いていた。

「タケオ……」

「オレをダメにしたいの?」

 タケオの顔が真っ赤になっていく。

「テルちゃんは、オレを、憎んでるの?」

「……」

 小さくうつむくタケオを見ていたら、自分の背中がバリバリと割れて、中から怪物が出てくるような気がした。
 その怪物はよだれだらけの大きな口を開けて、背後からタケオを襲い、バリバリむしゃむしゃ、メダカもろとも食べようとする。すると、タケオの背中からも、やっぱり同じような怪物が出てきて、お互いがお互いを貪りあうのだ。

 バリバリ、むしゃむしゃ

 バリバリ、むしゃむしゃ

 テルミは聞こえないはずのその音を聞きながら、ストッキングをのろのろと脱いで、ひざをつき、ぐちゃぐちゃに積まれた洗濯物をもう一度ハンガーに通す。それを何組か作って、立ち上がり、カーテンレールに引っ掛けた。

 その夜、そっと起きだしたテルミは、ふすまの陰からタケオを見下ろす。タケオは寝袋に頭までもぐりこんで、今から港に沈められてしまう死体みたいだ。キッチンの小さなテーブルを屋根にして完全に眠っている。
 そのテーブルの上では、メダカも目を開けたまま眠っている。テルミはパジャマの上からスウェットパンツを穿き、マウンテンパーカーを羽織って、財布を持つ。それからメダカの鉢を抱えた。

 自転車屋の角を曲がり、男前のお兄さんがやっているたこ焼き屋の前を過ぎ、商店街には明かりがポツポツ。スナック「お伽奏」からは美空ひばりの「東京キッド」が聞こえ、居酒屋「海の里」はもう店じまいで、黒板の釣果は昨日の日付になっている。豆腐屋「なかた」もミネドラッグも今はひっそりと静まり返る。

 水をこぼさぬよう鉢を抱えるのに腕がしびれてきて、駐車場の車止めに座って、休憩することにした。アスファルトの上に鉢を置く。自販機の光を浴びてメダカは慌てたように泳ぎまわっている。

――死んでしまえ

 メダカ三匹を携えて、このままどこか別の駅に降りて、駅から徒歩十五分くらいの、昔女子寮だったような白いタイルのアパートの一階に住んで、その出窓に、ガラスボウルを置いて、メダカと水草をゆらめかせ、それを頬杖をついて日が暮れるまで眺めた後、テルミは静かに眠りに入りたい。なんにも動いていない部屋の中でも心を持たないメダカだけが、ガラスボウルの中の水を右から左へ、左から右へ、ゆっくりゆっくり動かしてくれ、その動力できっとおだやかな朝はくるんだろう。

〈つづく〉

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