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ともに「感じ」にたゆたう

私のいまのお仕事は介護・福祉の専門編集者だけど、もとは介護現場にいて、ホームヘルパーとして車や自転車でぐるぐるお宅訪問をしていた。現場感覚をからだでわかって、介護・福祉の原稿の行間をそれなりにリアルにイメージできることが、私のお仕事の特徴だ。

いまはこんなご時世なので行けなくなってしまったけれど、現場感を忘れたくなくて、月に2日ほど、決まった高齢者施設に入居者の方々のお話を聞きに行っている。そこにいるある女性に、私はいつもどうしても声をかけたくなる。

その人は病気を抱えていて、言葉で話すことはできるけれども、筋道の通った話はできない。
私の顔を見ると、前置きも脈絡もなく、「○○ちゃんが○○にいったって。たいへんだったって、すごいね。こまったって。どうしてるかわかんないって」というようなことを言う。
「○○」は、固有名詞を伏せたのではなくて、話し手もわかっていないだろう言葉をモゴモゴと話しているようだ。だから何を指すのか、どんなことを話しているのか、読み取るのは難しい。いわゆる「妄想」と言われるような、具体的な世界観も、もはや読み取れない。

でも、私は彼女の話す言葉から「意味」や「情報」ではなくて、なにか彼女の言いたい「感じ」を受け取らせてもらうのが好きだ。「そうかあ。たいへんだよね。こまっちゃうね」なんていいながら、彼女の困った「感じ」に、しばらく一緒にたゆたう。

十分困って、困っているだけではちょっとつらいなあとふたりとも感じた頃に、私が「でも、だいじょうぶだって。いいようになったって」というと、彼女は「そう!そうかあ。いいんだね。よかった、よかったねえ」と喜んだ「感じ」に変わってくる。時には彼女の方から「でもなんか、へいきみたいよ」と転換することもある。そうなったら、ふたりで思い切り「よかったよねえ。いいね。すばらしいねえ」と喜んで、最後にはふわはははと笑ったりする。

意味だけを追いかけると、私たちの会話には全然意味はないと思う。けれど、私は10分くらいこんなやりとりをすると、彼女ととてもしっかりと何かを交換して、つながった感じがする。不思議なことに、私は、彼女もそう感じていることがはっきりとわかる。
他の人との普通の会話で「意味」や「情報」を交換している時の相手の「感じ」は、本当に近い人でなければ、たいがいがぼんやりとしかわからないのに。しかも、それは「意味」に邪魔されてとっても誤解が多くて不確かなのに。彼女の場合は、同じ気持ちになったという満足感がお互いにあることが、確信のようにわかる。

「一緒の気持ちになった」という満ち足りた感覚は、私を心底元気にしてくれる。だから、彼女と話すのが心から待ち遠しい。

調子を合わせているだけ? そうかもしれない。私はもうたぶん彼女が好きで、彼女が言葉で「意味」を伝えられないなら、「感じ」だけでもしっかり感じたいと思う。だから、彼女と徹底的に「感じ」だけを合わせるのは、全然いやじゃない。で、そうすると、とっても気持ちがいいことを教えてもらった。これは、「意味」を少しでももつ会話だと、難しいと思う。そこに解釈が生まれるから。「感じ」だけなら解釈も、いいもわるいもない。ただ感じながら、一緒にいるだけ。

「意味」も「情報」も大切で、私は文章のそれで仕事をしている。あんなふうな充実感に優るものがあるかなあと思いながら、今日もやっぱり仕事をしている、けれども……彼女と話した後は、「意味」と「情報」に、「感じ」のような柔らかさを加えて、どうかゆたかにつながりますようにという気持ちに自分がなっているのがわかる。それと、人と話すときは、「意味」の解釈に惑わされずに、目の前にいるひとの伝えたい「感じ」をしっかり受け止めたいと、より強く願っているのがわかる。それはそれで「よかったよねえ。ありがとう」と思う。

また行くまで、元気でいてね。

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