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秀吉vs家康が教えてくれた「いま」のこと

最近、現実と取っ組み合ってもしょうがないのと、直面するとしょーもないことが多く、前に書いたようにぷわぷわと歴史に逃げて、NHKーBS『英雄たちの選択』という番組ばかり見ている。歴史上の人物を生い立ちから追いかけ、歴史上のターニングポイントになった局面で、その人にどんな選択肢があったか、それぞれの選択肢にどんなメリット・デメリットがあったか、そして現代の脳科学・真理・軍事評論家・経済学者等々の専門家がその人物なら何を選択するか?を論じ合う内容。おもしろいのでとってもオススメだ。

で、ダラダラと見ているのだけれど、どの時代のどの局面も、いまのこの状態にオーバーラップするものが多くて驚かされる。いつの歴史も、この事態に示唆的な何かをはらんでいるように思えてくるのだ。それだけ、いまは多くのテーマが横たわっているということなのかもしれない。

例えば、秀吉と家康が直接対決した「小牧・長久手の戦い」の最終局面、圧倒的な軍備の準備が整った秀吉に、それには明らかに及ばない家康が突っ張って、まさに全面戦争に入ろうとしていたそのとき、マグニチュード8.0の天正地震が発生した。そのため、秀吉の準備していた軍・城・兵糧などの戦争資源はことごとく失われた。そこで秀吉は実母と実妹を人質に出し、家康に驚くほど低姿勢に和平を申し入れたうえで、平和裏に支配下に入るようにしたのだ。家康は一度秀吉の軍門に下り、さらに三河の領土を全て取り上げられて荒れ野の江戸を与えられたが、開墾した。その後の徳川の繁栄は皆さんご存じの通りだ。

天災・災害に代表されるピンチの局面は、歴史を作ってきた。それ自体はいいことではない。しかしピンチは、大きければ大きいほど、確実にその後の選択肢を変えてゆく。大きな災害がきっかけで、産業や発明が生まれたり、社会の仕組みが変わったり、個人レベルでは人間の移動が生まれて、会わなかったはずの人が出会ったりする。その混沌は、今まで以上に豊富な選択肢を生むということなのだ。

深いレベルで選択の自由が与えられた局面では、意思をもって選択できるかどうかがカギになるのだと、歴史は教えてくれる。決してドラスティックな決断だけがいいのではない。家康のように、「ここは耐える」という選択肢も、前向きであれば次の選択肢への伏線になる。

秀吉は、災害で兵を失った。だからこそ、平身低頭して家康に軍門に降って「もらった」。そのために天下を平定できた。家康は、秀吉の嫌がらせで領地を奪われ荒れ野をあてがわれた。しかし、その嫌がらせゆえに徳川260年の時代を作ることができた。

自分に降ってきた災いをチャンスに変えるしぶとさ。混沌の中にあって、深いレベルで自分の行くべき道を読み取るかしこさ。覚悟と責任をもって選択できる頑固さ。それが次の局面を開く根回しになるのだと。

私たちが今この局面で必要なのはただ生き延びるだけではない。どんなふうに来たるべき局面を迎え入れるか、そのために今をどう選び、どう動くかということなのだと、少なくとも私に、秀吉と家康の確執は教えてくれた。


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