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まともな人

私が住んでいる地域には、狭い範囲で図書館の分室が3つもある。

3つだと思っていたのだが、実は4つ目が、これまた近所にあるという事を最近知った。

そこはこじんまりとしていながら図書のラインナップが素晴らしく、疲れずに良い本にありつける。分厚い美術書や歴史書なんかも貸り放題だ。

“本の虫”にとっては最高に居心地が良く、この本を手に取ったのも、そういったわけかもしれない。

疑うことを覚えさせる

この本の半分くらいが教育と教科書検定についての話なような気がする。

読みながら正直、なんでこの人は教科書検定をそんなにも問題視して否定しているのかよく分からなかった。

教科書を検定してしまったら、何を子供達に教え教育するのかを考える、現場の先生達の仕事を奪っている、という話である。

養老先生の時代には、教科書の一部を先生の指示で墨を塗るというのがよくある事であったらしい。

先生の基準で、都合の悪い部分は墨で消してしまうというのだ。

現代っ子な私からすればビックリしてしまうが、そうやって“何を教えるかを選ぶ”という事が当時の学校の先生の大事な仕事だったそうだ。

しかし言われてみれば確かに、子供達に何を教えるべきか、ということについて真剣に考えている先生は今では少ないだろう。

娘達を通わせている学校の先生方を見ていても思う。

彼らはびっくりするぐらいプレゼン能力が無い。

子供達の問題について、問題があるということは教えてくれるけど、本質的な問題、あるいは解決策について提案を頂いたことは一度も無い。

多忙な先生方にそこまで求めるのは酷だ、というのなら、それなら先生の仕事とは何か?教育のプロとは?

養老先生自身は、墨塗り教科書の時代を良かったと言っている。

教科書ですら間違うんだから、目上の人や読み聞きしたことも総じてまずは疑うというクセがついたのだそうだ。

疑うことは大事だ。疑うということは、その物事について真剣に考えてみるということ。主体性の萌芽だ。

そういう意味では、子供達にはぜひ親の言うことも疑ってほしいと思う。親は神などではない。

子にとっては酷なことなのかもしれないが、それが親である私の願いである。

“個性”の重みが違う

教育を語るさいによく出てくるワードに“個性”というものがある。

今の時代は個性礼賛主義。個性を持つ者が勝ち組であり、特に思春期の子達にとっては個性そのものが憧れの的。

この本を読んでいると、養老先生は反個性主義らしい。共感や共通性こそが大事であると何度も説いている。

私の好きな内田樹氏はアンチ共感コミュニティな人で、全然違う、真逆なことを言っている。

なんで養老先生はそんなに個性をマイナスに捉えるのか。個性が伸びすぎると精神病棟に入院する、とまで言う。

そんなこと言っちゃう方がビョーキなのでは?と思ったが、どうも違う。

養老先生と私では“個性”という言葉が持つイメージが、かなり異なっているようなのだ。

一般に言う“個性”のイメージは、みんな違ってみんないい、とか、発達障害なども個性の1つとして見る、とかそういう類のものだろう。

個性≒多様性なところがある。

しかし養老先生はどうやら、このようなものは“軽微な差”ということで、個性の内には入らないと考えているように見える。

もっと人として根源的な部分での決定的な違い。そういうものを“個性”と扱っている気がする。

教育関係の仕事をしている友人は何人かいるが、誰一人として“個性”をそんなふうに捉えている人はいない。もちろん私自身も考えたことは無い。

やっぱり養老先生は“個性的な人”だなと思う。

人の心がわかる心を教養という

教養は大事。数年前から本当にそう考えるようになった。

教養が無いと人生の選択肢が狭まるし、平気で人を傷つけたり差別したりするようになるし、それが積もり重なると戦争が起こったりすると本気でそう思う。

教養の取得には勉強が必須だ。特に義務教育の間に学ぶことは、教養の土台になる部分なので重要と思う。

養老先生は「教養はものを識ることとは関係ない」と言っているが、恐らくこれは座学が必要なわけではないと言っているのだろう。

“学ぶ”とは座って勉強することだけを指すのではない。もっと広義の意味で言えば、日常生活ですら学びの連続である。

以前に友達が、その道に詳しい専門家な人から「あなたって自己肯定感が低いよね」と言われたと落ち込みながら話してくれたことがあった。

その専門家とやらは、一体何のために勉強しているのだろうか?

それはハラスメントである。怒っていい。インテリハラスメントだ。

人の心がわからない人が使う知識を教養とは言わない。人の尊厳を貶め、傷つけるために学問は存在しているのではない。

知性と愛が噛み合う歯車であるように、知識が行使されるときには必ず心をかけなければならない。

何のために勉強するのか。それは、自分を識り、自分を癒し、人と心を通わせる為にするのだと、本当にそう思う。

燃える心

私の周りには怒っている人が多い。私は怒っている人が好きだ。

短気な人という意味ではなく、世の中の不条理に対して声を上げている人達という意味だ。

怒っている人はハートが熱い。情にも厚い。そういうところが好きだ。

そういう人達の中にいると、自然と自分の心も燃えてくる。

そういう人達の中にいられて、ありがたいなと思う。

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