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映画『首』に見た、過剰化されたブラックジョークが至る境地

 北野武監督最新作『首』を劇場で鑑賞し、大変なショックを受けた。失望でも絶賛でもない。賛否の尺度なんか後回しで、先にきたのはただ衝撃と動揺それ自体だった。

 北野武作品はこれまで何本も観てきたし、暴力的だったり悲劇的だったりする映画には慣れているのに、どうして今作にこれほどショックを受けたのか。直接的なネタバレを避けながら、以下に詳しく書いていこうと思う。


1.本作の位置づけ

 北野武映画は、身も蓋もない暴力が客観的・俯瞰的な視点によって、時にユーモア、時に無常観へと繋がる。その描き方が通俗的か文学的か、そのバランスによって様々に顔を変えてきた。もちろん例外的な作品もあるけれど『その男、凶暴につき』から今作まで続く作家性はそうやって説明できると思う。

 初期の作品は『ソナチネ』に象徴されるように、無常観を文学的に描いている面が強く、その詩情が高く評価された。それが『アウトレイジ』ではユーモアを通俗的に描いている面が強くなり、その娯楽性が興行的なヒットに繋がった。

 では今作『首』はどうかと云えば、やはり『アウトレイジ』の流れを汲んでいて、かつての詩情はあまり感じられない。無常観をベースとしながらも、いっそ『アウトレイジ』以上にユーモアを前面に出している。むしろ最初から最後まで徹底してブラックジョークによって構成されたことによって、娯楽性を損なうほどのバランスになっている。これがどういうことか、次の項で説明する。

2.コントが映画になる瞬間

 鑑賞した人の感想では本作をコントと評しているのをよく目にする。特に芸人ビートたけしを知っている人(日本国内では、よっぽどの若者を除いてみんな知っているだろうが)であればなおさら、明らかに意図してコントをやっているのだと判る脚本・演出のシーンが散見されるのだ。

 当然ながら私も同じように捉えたし、ずっと笑って観ていたのだけれど、しかし個々のシーンはそんな調子で面白い一方で、映画全体としては盛り上がりに欠ける印象が続いた。本来であれば盛り上がりそうな場面で、ことごとく肩透かしなことをしてくるからだ。

 入念に張っていた伏線やフリが、みんなブラックジョークの一発ネタとして回収されるので、その悪ふざけに笑いながらも、ひたすら梯子はしごを外されている気持ちになってくる。〈本能寺の変〉のシーンなんて象徴的だ。今作がメインに据えた題材かと思いきや、あるべきカタルシスが放棄され、呆気ない幕切れを迎える。

 もちろん意図的にそうなっているのだし、それを楽しむ映画ということも判って観ているので、残念ということはない。それでも途中で何度か退屈に感じる局面もあって、「傑作!」と手放しに賞賛することにはならないだろうなと思いながら観ていた。

 しかし、終盤に差し掛かるにつれて様子が変わってくる。映画のトーンが変わるのではない。観ているこちらに異変が生じてくるのだ。相変わらず笑いながら観ているのだけれど、ただ笑っているだけではない。いわばダメージが積み重なっていく感覚。それが徐々に自覚されてくる。

 はじめは、繰り返されるブラックジョークに辟易してきたのかと思った。それも一面ではあっただろう。しかし辟易だけではないようだ。コントなら、飽きれば笑えなくなって終わりである。そこで胸の奥が痛んだり、苦しくなったりという感慨は抱かない。これは既にコントでは済まない状態になっているということだ。

 そうやって自分の観ているものが確かに映画であるということにようやく気付いたころ、今作を総括するに相応しい強烈なラストシーンが到来した。

3.シャーデンフロイデ

 ラストシーンでは、武人である光秀と元百姓である秀吉との、首に対する対照的な考えが諧謔的かいぎゃくてきに描かれる。それが映画全体に対する皮肉となっている点でも秀逸だ。そうは云っても、やっぱりブラックジョークには他ならないし、質的には劇中で散々見せられてきたものである。だから予想の範囲内ではあるのだけれど、しかしいざ見せられると私はまったく予想外の衝撃を受けた。

 それは蓄積されてきたダメージが臨界点を超えて、今こそ大きな一撃となって襲ってきたという印象だった。

 続くエンドロールの間、打ちのめされたように座席の上で動けないまま、私はとにかく悲しかった。劇場内が明るくなって周りの観客らに混じってぞろぞろと劇場を出るときには、心細くて堪らなくなってしまった。心理的にしばらく立ち直ることができなかった。

 理由はきっと、これが単なるブラックジョークの羅列ではなく、史実をベースとした時代劇であるためだろう。これまでの北野武映画と異なるのはその点だ。

 今作に登場する人物は信長も秀吉も光秀も他もみんな私利私欲のために行動し、悪辣だったり姑息だったり卑近だったり、とにかく感情移入なんてできない。確かな時代考証のもと史実に沿うようなことも目的とされていないし、あくまでも歴史上の人物や出来事を元ネタとした二次創作的な物語だ。

 それでも、知識として知っている人物や事件によって形作られていることから、ふとした瞬間に「このとおりではなくても、これに近いことはあったのかも」「あってもおかしくないのかも」と意識することになる。してみると、現代では考えられない滅茶苦茶な乱世のなかで天下を獲るべく、そうでなくても名を上げるべく、あるいは別の目的、信念、矜持、単に生き抜くため、なんであれ懸命に生きた人々がみんな悪趣味で皮肉な結末を迎えていく様子が、単なるつくりもののジョークでなく、今の自分に繋がる歴史、普遍的な人間の在り方、それらの本質として徐々に了解されていくにつれ、やるせなくて仕方がなくなってくるのだ。

 さらにはそれを映画として観客に見せ、多くの観客がそれを笑いながら見る。私にとってその構図は、成功者や人気者がひとつのスキャンダルによって世間から袋叩きを受ける現代の光景とリンクした。もちろん罰せられるべき悪事や責められるべき不正はあるから、その社会機能の是非とは議論を分けるべきなのだけれど、やっぱり他人が転落する様子を楽しむかのような光景は頻繁に目にするし、私はそれこそ醜悪だと思って見ている。芸能界のトップにのぼり詰めた北野武ともなれば、当然ながらそんな光景は無数に目にしてきたし、自らも幾度となく当事者となってきたわけだ。それをこの映画によって批判的に描こうという意図があったかは断定できないけれど、結果的にこういうものが出来上がるのはそのキャリアや人生観によるものであり、これは今作に限らず前作『アウトレイジ』でも同じだった。

 ただし先述のとおり、今作は過剰化したブラックジョークによって娯楽性がなくなっている。そして北野武映画の特徴である客観的・俯瞰的な視点というのも、時代劇(我々が知る歴史に多かれ少なかれ言及する)であるという点からより際立つようになっていて、それらが突き放されたような感覚を増長させた結果、かつてなく途方もないショックを伴うようになったのだと思う。

 自分だって、必死の思いで積み上げてきた大事なものが他人からこんなふうに扱われてお仕舞いとなっても、まったく不思議じゃないのだ。

 もっとも、そこで嘲笑的な態度を取ることも可能で、そういう人は最後までコントを楽しむように鑑賞できるだろう。「人間ってこういうものだよなあ」と悟った気分になって、それまでという人も多いはずだ。みんながみんな私のようにセンチメンタルな気分に陥るはずはないし、やっぱり映画らしい盛り上がりに欠ける点から単純に「楽しめなかった」という感想になってもおかしくない。〈よく出来た映画〉であることは放棄されている作品なので、結局、受け取り方は各人の感受性によるものだとは断っておく。

4.おわりに

 ともかく、これで私が本作をどう受け取って、なぜショックを受けたのかは説明できた。云うまでもないことだが、このようなショックを受けることのできる映画というのは何よりも素晴らしい。

 結論、私の感想は〈絶賛〉である。

 想像していたとおりの内容なのに、実際に見せられたときに想像を超えた衝撃を受ける。それこそ、これを映画として作品にした意味があるし、これが映画であることを証明している。

以上

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