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話がしたいと。

最近思う。もしおじいちゃんと沢山話せたなら、

私は彼と、何を話しただろう。

私とおじいちゃんは長い会話をしたことがない。

おじいちゃんは私の生まれる前に脳失血で半身麻痺になり、言葉がうまく出てこなくなった。

おじいちゃんからゆっくりと発せられるシンプルな単語や言葉は、彼が亡くなり3年経った今も、記憶の奥で聴こえる。

おーい
うまいなぁ
忘れちゃったよ
(景色を見て)変わっちゃったなぁ
(酒が)回ってきた
ありがとう
ありがとうございました


その声は、彼自身の、雪解けの太陽のような明るさと暖かさをそのまま纏い、どこまでも素直で、発する一音一音は形を持っていた。

声は、言葉は、相手に伝えるためのものだと。

受け取った言葉は少なくても、それ以上に私たちはたくさんの言葉に変わるやりとりをした。

おじいちゃんの部屋の大きな窓からは、家の庭と山が眺められた。
おじいちゃんとその景色を眺める間、時間とは別の何かが流れているような感覚がした。
二人で眺める間、空とも、土とも、山とも、庭の草花とも、風ともやりとりをしていた。

この時受け取ったものは、そのまなざしだった。
それそのものが全てで、完璧なものだ。

それでも
彼の言葉を聞きたい、話したいと思った。おじいちゃんと私と、たくさんのことについて。

小さい頃の思い出、育った土地のこと、愛、生死、そして私たちは本当に幸せな家族であることについて、話したらきっと、そんな言葉になる。

いつか話せる時はくると思う。楽しみだなぁ。

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