SO LONG GOODBYE 11.逆上がりあやこ
2020年1月30日 京都府にて
1月がもうすぐ終わるな。
人身事故が起こったらしく、阪急が止まっていた。一通り困惑したのち、バスで街まで出る。そこからは歩く。
事故だろうか、飛び込みだろうかとふと考えてしまう。
バスの中で、ことがあったと思われる踏切に関する都市伝説があると聞いた。踏切のそばの電柱にしがみついてこちらを見ている男がいるのだという。
テキストができた。
いろいろなところから引用されている。今年のインタビューだけでなく、去年のものからも。
言葉の集積。こういうふうにして、声が、言葉が蓄積されていくのか。それってなんだかいいなあ。
責任の話をする。
日本における責任と、海外における責任という言葉のニュアンスが少し違うという。
日本は「自分」への責任、自分がやったことへの責任という文脈が多い。ところが海外は、相手に対して応える責任という文脈があるのだとか。答えられるという前提が責任。まわりでこういうことが起きているから私にはこういうことをするという責任があるという考え方らしい。
うまく伝わっていないような気がする。この辺の細かな部分をわたしがいまいち理解しきれていないのかもしれない。
河井朗が、「人という生き物自体が無意味を成立させられない。何かしら意味を求めてしまう」と言っていた。
わたしもいつかそういうことを考えていたなとはたと思う。むかしわたしはよくものを考えていたような気がする、今はほとんど考えない。
あやこさんはすごいチャーミングな人(すごくチャーミング、ではなく、すごいチャーミング)なのだが、そのおちゃめさが出せていないと河井朗が唸っている。そんな話をしている時、あやこさんは床にひっくり返って足をぶらぶらさせていた。あやこさんのかわいいところは、そういう幼稚園児みたいなところ、と河井朗が言う。
あやこさんにはグループラインで日記を書いてもらっているのだが、あやこさんの、なんと言うか、世界に対するオープンさ、みたいなものにたまに驚く。わたしもできるだけそうありたいのだがなかなか厳しそう。向いてなさげ。
今回はどうなるか分からないが、アバンギルドバージョンのSO LONG GOODBYEは「なんでも話してあげるよ」という言葉で幕を下ろした。
この言葉を、わたしはとても優しくて残酷な言葉として聞いていた。自分を開く、世界に差し出す、踏まれる自分。それを厭わない痛さを感じる。
でもそれじゃいけなくて、開いても損なわれない、差し出しても奪われない、撫でられることに痛みを感じない、「強さ」のようなものが必要だと今思う。練度かもしれない。優しくて悲しいことを美としない勇気が必要。
河井朗が「作品を見て笑ってほしいなー」と言っていた。そうだね。
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第41回記念Kyoto 演劇フェスティバル
〈U30支援プログラム〉採択作品
ルサンチカ『SO LONG GOOD BYE』
「人は一日八時間食べてはいられないし、一日八時間飲んでもいられないし、八時間セックスしつづけもできない。八時間続けられるものといえば、それは仕事だ。それこそが人が自分も他の人すべても、こんなに惨めで不幸にする理由なのだ。」
第41回記念Kyoto 演劇フェスティバル
2020年2月9日(日)
ホール開場15:40 / 開演16:00
京都府立文化芸術会館 ホール
【料金】
一般前売:1,000円(当日1,200円)
高校生以下前売:500円(当日700円)