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ギリシア人の調和観

ソクラテスは、自分の言説が矛盾するのは不調和であり、それはリュラの竪琴や合唱隊の不調和よりもひどい、と言う(『ゴルギアス』482c)。ここでは言説における首尾一貫性が調和とされている。またソクラテスの対話者の一人であるラケスは、徳ある者が徳について語るのを調和とみなしている(『ラケス』188d)。これは言行の首尾一貫性である。

言説の首尾一貫性とは言説が変わらないことであり、言行の首尾一貫性とは言葉と行動が同一であることであり、いずれも「A=A」という同一律で表現されよう。この同一律を存在論的に表現したものが、パルメニデスの存在論である。パルメニデスがいったいどういった事情から自らの哲学を作り上げたのかは私には不明であるのだが、その一つの理由として推測するに、ギリシア人好みの調和概念に由来するのであろう。というのも、調和とは「A=A」のことを言うのだから。つまり、有るものは有るのであり、有らぬものは有らぬものなのであり、換言すれば、有るものは不生不滅・完全無欠・不変不動・全体かつ一者なのである(『初期ギリシア哲学者断片集』山本光雄訳編 断片99より)。

ここまで述べたことを逆の観点から述べれば、以下のようになろうか。すなわち、ギリシア人は調和を好んだのであり、この調和はソクラテスにおいては言説の首尾一貫性とされ、ラケスにおいては言行の一致とされ、パルメニデスにおいては「有るものは有る」という存在論として理解されたのであり、そのいずれも論理的に表現すれば「A=A」となるのである。

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