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『読みたいことを、書けばいい。』が、読後3日でも、まだまだマイブーム

『読みたいことを、書けばいい。』が、マイブームだ。

この本の最大の教えは「他人の人生を生きてはいけない」ということだろう。少なくとも、私はここが一番響いて、読んでから3日は経つが、ずっとこの本の感想をどう書くか、ばかり考えているくらい夢中だ。

これを実現するうえで、最高に使えるテクニックが、「『内面を語る人』はつまらない」なのだ。

書けない、書けない、と言っていると「思ったことを書けばいい」とか「書きたいことを書けばいい」と言われる。この本のタイトルが秀逸なのは、そのどちらでもなく「読みたいことを、書けばいい」という点。「読む」で、一回自分から客観視する行為を通して書くことを決めるというのは、「書きたいこと」という内省行為とは少し違うからだ。

書くことに対する悩みは多くの人が持っているし、私の少ないnote投稿でも見知らぬ人がわざわざ読んでくれたことがあるのが「noteが書きたいけど書けない問題を考える」というタイトルの記事。つまり、よっぽどみんな困っているということだ。

みんな書き方がわからないし、そもそも何を書いたらいいのやら、という問題を抱えている。テクニックそのものよりも、「書くための考え方」が知りたいし、そういう本は少ないんだと思う。

この本の中で、なるほど、と思うのは「第1章 なにを書くのか〜ブログやSNSで書いているあなたへ」の「その3 書く文章の『分野』を知っておく」に書かれた内容だ。

この前のページに、ネットで書きたくて読みたいと思う人が多い分野が「随筆」だと書かれている。その定義は以下を引用します。

「随筆とは、事象と心象が交わるところに生まれる文章」(P54)

これだけだと「事象と心象の関係」が、よくわからないと思うので、「第3章 どう書くのか〜「つまらない人間」のあなたへ」の「つまらない人間とは『自分の内面を語る人』」も紹介したい。

「つまらない人間とはなにか。それは自分の内面を語る人である。少しでもおもしろく感じる人というのは、その人の外部にあることを語っているのである。」(P142)
「事象とは、つねに人間の外部にあるものであり、心象を語るためには事象の強度が不可欠なのだ。」(P143)
「調べたことを並べれば、読む人が主役になれる。」(P148)

著者は、一次資料にあたって、調べて調べて、最後に自分の思いを書くことをすすめている。

内面の吐露をしながらも、説得力のある文章で人を惹きつけている文章は、これができているわけだ。もしかしたら、私は国語の授業を真面目に受けすぎていたのかもしれない。「自分の湧き上がる感情」をメインに書くように言われて、それを忠実にやってきた結果、誰にも読まれず自分でも読み返すのがイヤな文章しか書けなくなっていた。

さて、ここまで書いたが、私はこの教えをぜんぶ無視して、感想を書いていきたい。それは、この本によって、最近考えている「真面目すぎる弊害」という問題の答えに辿りつきそうだからだ。

私は、悩みが生じたとき、人に話すと「真面目すぎるんだろうね」と、言われることが多い。

「真面目を極めて生きよう」と心がけている訳ではないのに、30年以上の人生で、よく言われてきた言葉だ。

私を形容する言葉をランキングにしたらベスト3に入るくらい、よく登場する。でも、不思議なことに「真面目な人だ」とは、あんまり言われない。私の知り合いで「真面目な人だ」と評される人がいるが、その人と比べると、たしかに真逆の性格をしている気がする。

その人は、緻密さ、とか着実さのような「堅実」という言葉も似合いそうな感じだ。私は落ち着きがなく、うっかりしている。「真面目」と「真面目すぎる」では、意味が違うようだ。

真面目というと、辞書には「誠実」とか、「ウソや冗談でない」と書かれており、「誠実」は「真面目で真心がある」と同じことが書かれてあった。

つまり、社会をサバイブする上で土台になる超重要な人間性の一つだ。これがなければ、人を利用するなどの不誠実さで、言っていることはウソばかり。全く信頼できないとなると「詐欺師」や裏稼業など、陽の当たる場所を堂々と生きるのは難しい人生になるだろう。

私が就活をしている頃に公務員を志望する人は、だいたい真面目な人だった。最近見たNetflixのオリジナル韓国ドラマに登場した苦学生も、真面目な性格で、自分の意見もあるしっかり者で、公務員を目指している役だった。つまり、「真面目な人」は、しっかり者というイメージで受け入れられているのだ。

一方、「真面目すぎる」人というのは、どうだろうか。「真面目」がすぎるのだから、相当大サービスした状態で「真面目」なわけだ。

「良い」とされるものは、なんでも多い方がいい。「誠実」で「ウソのなさ」が大盛り。けっこうではないか。

けれど「真面目すぎる」ことで、「よかった!」と思ったためしがない。むしろ人生の支障になっていることが多々ある。

20代前半のころに、人づてに紹介してもらった中途採用試験で芸能人の記者会見を録画した30分くらいのVTRを記事にするテストが出された。そのとき、「間違ってはいけない」とかなり集中して真面目に見ていたのだが、どうもうっかりしているので「なんか間違っているかも」と気になってしまい、「もう一度確認していいですか?」と申し出て、2回くらい巻き戻して見てから提出した。

結果は、不合格だった。あとから、紹介してくれた人に聞いた話では

「この仕事は、要領よくまとめることが大事だから、何回も見てくそマジメに書くのは、時間のムダ。”真面目すぎる”ってことで今回はダメだったみたい。あと、誤字があったのもマイナスポイントだったって聞いた」

と、こんなにストレートに傷つくこと言ってくる人も珍しいな、というくらい採用時のやりとりを教えてくれた。おかげで別の採用試験でくそまじめにやらないようにしようと思えたので感謝しているが。

このときは、第二新卒のほぼスキルがない社会人だったので、真面目さをアピールした方がいいだろうと姑息なことをしたせいで裏目に出てしまった。

なによりも、「間違えてはいけない」という気持ちに支配されて、読み手が「おもしろい」と思うかという視点はおろか、自分が何を書くのか、という一番大事なことを置き去りにして「間違えないように、何かの答え合わせをする」ように書いていた。

今なら、2回も映像を見る時間があるなら原稿を読み直して誤字のチェックをする。当時の私は、目的を捉え損なっていたのだ。

その後、なんとか転職はできたのだが、「間違えてはいけない」という思いは改善せず、最近までずっと「答え合わせ」する感覚が抜けずに仕事をしていた。

だから、人に合わせて「正しい」とか「間違ってない」と顔色をうかがい、「あるわけもない妄想のなかの答え」を目指して突っ走り、それなのに相手の反応がイマイチだと自尊心がズタズタにやられてものすごく落ち込んだ。

そのため、どんどん削ぎ落として相手の「問題解決」をするためのスキルや「目的へまっしぐら」な文を書くのが得意になっていった。それが、本書の中でいう「業務用の文書」だ。

書きたい人がいて、読みたい人がいる、それが「文章」なのである。(P49)

この「〜したい」が、抜け落ちたまんま、文章を書こうとして書けなくて長いこと苦しんでいたことに気がついた。

けなされることもイヤだし、ほめられたいけどほめられることにカスリもしなかったらもっとイヤだ。ただでさえ生きているのは疲れるのに、そんな瞬間に立ち会う機会を自らつくるなんて絶対イヤだ! と思っていた。

だから、この本の一貫したメッセージである「自分が読んで楽しいと思う文章を書く」というのは、目からウロコどころか、目玉を取り替えたくらいの視界の晴れ具合なのだ。

評価は他人が決める。
他人の人生を生きてはいけない。
あなたはあなたの人生を生きる。
その方法のひとつが、「書く」ということなのだ。(P115)

このくだりが、本当に好きだ。

自分を楽しませるために書くのだ、ということに気がついたら、書くことができるようになったし、今のところ、毎日書くことができている。

「自意識」の皮を剥ぎ、好きに生きるトレーニングをするための、教科書のような本だと思う。

もう少し、この本の教えの通り「調べて書く」をできるようになりたいが、それはこれからやってみたいと思う。



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