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憤慨するマーマレード



#丁寧な暮らし  に投稿される日常には、日々、すてきな暮らしっぷりがあげられている。

おいしい珈琲だとか、お花のサブスクだとか、手作りのお菓子だとかが、自然光の中で、作品のように煌めいている。

この写真、撮るまでに何分かかったのかな、とか、そんな事を考えるのは野暮である。

彼らは"丁寧な暮らしをする、素敵なわたし"がかわいくて仕方がない。

その、溢れんばかりの承認欲求は、かわいいが、満たされない部分を抱えている事を知っている。


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"おんなのこ きらい" という森川葵主演の映画をご存知だろうか。

主人公はひび割れたコップみたいな女の子だ。誰からみてもかわいいのに、いつまでも彼女の承認欲求は満たされない。

注がれても、注がれても、コップは空っぽのままだった。

彼女はかわいいものだけを体内に取り込み、吐きだすを繰り返すという女の子だった。

色とりどりのマカロンやドーナツ、ケーキは、あまりにも毒々しく、不気味に描かれ、そっと、痛々しい彼女を見守っていた。

彼女は、"かわいい"を他人が持つ、見た目だけの評価に委ねてしまっていた。
彼女が優先すべき、彼女自身のかわいさを蔑ろにして。

物語終盤、本当に認められたい自分をやっと見つけ、本当に受け入れて欲しい相手に気づき、そして、それは叶わない。

ラストシーン、彼女は自身のかわいさを自分で肯定する。そんな彼女は、誰がなんと言おうと、世界一かわいかった。

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映画のなかで承認欲求は、圧倒的苦痛として描かれていた。

承認欲求は、当たり前に私たちの中に燻っていて、それは本来、人間のかわいさの塊みたいなものであるべきだ。




認められたい自分とは、何者なのか。


それが一番重要なのではないだろうか。

空虚を感じるのは、本来の自分とは異なる評価で気持ちよくなっている、ちっさい自分を認められないからだ。

カーストの一軍だとか、二軍だとか、
仕事が早いとか、遅いとか、
造詣が深いとか、浅学非才だとか、

その人の価値には繋がらなくていい。

一つの面にのみ、光を当てて見た形では、そのものの魅力なんてわかるはずがない。


様々な価値基準を振りかざされ、私たちは踏み付けにされる事とする事を繰り返す。
優越感に浸ったその人が、それで満たされてくれるなら良いのだが、踏み台にするくらいなら、ちゃんと満たされて欲しい。


「 マーマレード、作ったんだけど、太るし、そんなに好きじゃないからあげる 」と、

手作りのマーマレードを貰った。

インスタグラムにはリボンが巻かれた瓶が投稿され、側に置かれたドライフラワーが寂しそうに項垂れていた。


投稿についたハートで、彼女はちゃんと満たされているのだろうか。

マーマレードは憤慨している。

もうちょっと、もうちょっとだけ、彼女を幸せにしたかった。

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