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母は何になりたいのか

お久しぶりです、またnoteを忘れていました。
何度忘れれば気が済むのだろうか…

とはいえ、思い出したので書くという初動が
できた自分を褒めたいと思います。

また生活は少し変わり、手塩にかけて育てた
お店を手放すことになりました。

様々な気持ちがありますが、今は自分を成長させてくれただけではなく、人との繋がりを確固たるものにしてくれたお店に感謝しています。

話は変わって、2歳半の息子は日本語をうまく
つかいこなせるようになってきました。

私に叱られた後、いらだつ仕草はなぜか
歌舞伎俳優なみの見得を切ること。
どこで学んだのでしょうか…集団保育は
子供に色んな要素を与えてくれるので面白い。
子供も与えられたままにぐんぐん吸収して
ぼんぼん出力するそのパワーに圧倒されます。

という訳で、なんとなく順調ですが…
10月からフリーランスになりました。

飛び込みで始めたわけですが、上手く事業が
回っていくのかはまだ不明です。

こんなに見通しが立たないのに
考えるのは先行きの不安ではなく
自分は何になりたいのか?という事。

ライフワークバランスを重視しながらも、
仕事と休まることの無い子育てに忙殺され
「どうなろうとしているのか」という
人間としての核を忘れかけていました。

「何になりたいのか?」と自分に問うと
・平屋に住みたい
・家庭菜園をしたり土に触れたい
・自然を眺めながらのんびり子育てしたい

という、生活面のことばかりでてくる。
しかもこれは「なりたいもの」では無い。

自分にフォーカスできなくなってることを
突然恐ろしく思った私は、高尾山へ1人登山へ。

子供の保育園のお迎えの時間がタイムリミット
タイトなスケジュールでの山頂アタックです。

高尾山なんてこなれたもんよ、と思って
6号路を軽快に登っていくこと約20分。
ふと自分が1人であることに気がつきました。

進む道には誰の背中もなく、
振り返っても誰もいない。

ただ、ただ山の中なのです。
すかさず本能的な恐怖が襲ってきました。
「とにかく早く登らなくちゃ」
恐怖と焦りからただそれだけを考えて、
ザクザク山道を進み、登頂まで1時間という
激速タイムを叩きだしました。

自分はなんのために山に来たんだろう?
本心と向き合い対話するためじゃなかったのか?

山頂の飲食店で熱燗ワンカップをすすりながら、
やるせなさに心がシンと痛みました。

でも、ある共通点に気が付きます。
日常でもこの登山のように本能的な恐怖に
駆られる瞬間があるということ。

今止まらずに働き続けているのも
子供に不自由をさせてしまうことが怖いから。
なおのこと、自分なんて二の次です。

とはいえ、子供に対しては母性本能が
働いていたとしても、不自由させるということ
については社会的なバイアスがかかっているなと
自分を見つめて思うのでした。

生活の中で漠然とした恐怖に忙殺されることを
繰り返していれば「何になりたいか」なんて
分からなくなって当然だなと。

がくんと何かが離脱したような疲労感が来たので帰り道はリフトで下山して、極楽湯に着湯。

温泉に浸かると(私の場合は)大抵のことが
どうでも良くなり、ただ気持ち良いで1杯になります。これは、胎内記憶なのかなと、小雨が降る露天風呂でぷかぷかと考えました。

赤ちゃんは39℃に保たれた羊水の中で
10月10日もの間ぷかぷか泳いで過ごします。

しかし、時が来れば突然外界に
絞り出されて外気温とはじめての肺呼吸
ギャー!となって産声をあげるわけです。
(それからよくみんな育つなと関心)

謎の回想と振り返りを経て、
赤ちゃん時代の心地よい思い出が
温泉の中で再現されているような気がしました。

同時に「自分は何になりたいのか?」
という疑問もお湯に絆されたのか

焦燥感がなくなり風呂から上がる頃には
「生きながら考えればいいか」という具合に
思えるようになっていました。

疑問を解決する手段として山登りは微妙でしたが
結果的に疑問を解決する方向を振り分けていく
作業が重要だということに気が付きました。

日常生活で襲ってくる漠然とした恐怖を
その都度立ち止まりながらも、解釈をして
毅然と立ち向かう練習をこれからも
続けていこうと思います。

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