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刹那を一つずつ

たくさんのものに怯えている。失敗が怖い。人を失うのが怖い。人を愛して二度と会えなくなるのが怖い。時に流れてほしくない。今この瞬間に一時停止ボタンを押して、世界が回るのを止めて、流れるジャズも止めて。一人で、止まった世界で佇んで、寝っ転がりたい。これ以上私を置いていかないで。

前どこかのノートで、ミネルバでの生活は激流だと書いた気がする。濁流に揉まれるという表現があるけれど、ミネルバの生活は揉まれるまでもなくただただ流される。強いては自分が激流を造る一部になっていないといけないような気さえするから不思議だ。

私がこうして人生の流れに怖気付いている間も地球は回る。人はみんな彼らの道を進んでいく。人生は港のようだ。船が来ては去り、来ては去る。恋しいよと嘆いてみたらあの船はUターンを描いて戻ってきてくれるのでしょうか。碇をあげるのが早すぎたのです。私の間違いです。と言えば彼らは戻ってきてくれるのでしょうか。もう二度と会えないのでしょうか。新しい出会いがあるたびにその終わりを予感する。終わりを見据えながらの生活は現在を将来のものにし、過去を無意味にする。どうやら私は現在すらまともに生きられないようだ。

きっと全てに意味などなくていいのだろう。カフェでぽちぽちとnoteを書きながらなんだか私は4回くらい生まれ変わったような気がしている。自分が選んだ人生が思わぬ外的要因と想定外の化学反応を起こして今の私がいる。今の私だけではなくて、私がみている世界の全てが過去の自分のいまの環境の化学反応だと思うと何か運命的なものを感じざるを得ない。

私たちは刹那を生きている。それがジャズが流れるカフェだろうと、寮の四人部屋のベッドだろうと、新幹線の窓側の席だろうと、通勤電車での一瞬だろうと。私たちは常に刹那を生きている。刹那の一瞬一瞬を前を向いて受け止めていきたい。

刹那を受け入れるのは怖い。「安定した将来」という不確定な未来を盲信して刹那的現在を受け入れるのも一つの選択だ。だって次の瞬間には消え去ってしまう刹那を一つずつ噛み締めるのは不安で、毎秒が不確定で恐ろしい。でも刹那を生きているとき、私の身体と心は同期して、共鳴する。自分の五感と呼吸が共鳴すると、なんだか穏やかな気持ちになる。

穏やかに刹那を生きる。

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