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where do i belong - 私はどこに

英語にはthird culture kidという言葉がある。第三文化、どこにも属しない文化的ノマドだ。しかし人はいつも拠り所を求めている。心の住処を探している。

noteには自分の心情と他者の心情を汲み取って、客観視して相対的に文をかける人もいるが、私はそうではない。未熟だし自分の感情に名前さえつけれない。感情一つだってさまざまな要因の化学反応なのだ。だから私はただひたすら感情をつづる。それが誰かに届けばいいと思う。

大学に入ってからずっとなにかに追われていた。将来に追われていた。自分が創り出した社会の虚像に追われていた。ふと立ち止まればなにもなかった。見渡せば森。何も見えなくなった。

どこに戻ればいいのだろう?と考える。私はどこから来て、どの道を辿れば家に戻れるのだろうか。戻ることなど考えていなかった。真っ直ぐ進めば安定した将来と生活が待っていると彼らは言った。それが「正しい」のだと。「回り道をしてもいいよ」と誰かが言った。回り道は楽しいらしい。彼らは言った。でも今まで歩いてきたまっすぐな道を離れなければならない。「なんだか怖いなぁ」彼らのほとんどはそのまま真っ直ぐ道を歩く。その回り道、大きな崖を登れば大変綺麗な花畑が待っているらしい。真っ直ぐで平坦なつまらない道よりずっと心が踊る。私は思った。

誰も回り道のリスクは教えてくれなかった。崖を越えればそれはまた平坦な、もっと歩きづらい道だった。言葉も違えば常識も違う。来てしまった以上進むしかない。今更あの平坦な道に戻ってなにになるのだ。「やはり回り道は怖いね」と言われるだろう。この道を歩いて生きていく、私は決めた。誰かの言った通り,そのとおり、 崖を越えれば花畑があった。回り道を選んだ者にだけ見える幻想だ。その幻想を彼らに売る輩もいた。いいとこだけの切り抜きは綺麗に見えるもんだ、と私は顔を歪める。

道なんて幻想だ。目的地があるわけでもないのに。私は顔をしかめる。人生が道ならば、私たちはどこに向かっているのか。目的地がない大地は道と呼べるのだろうか。

家を出た。温かいご飯と屋根を置き去りにして大地にでた。そこは楽園だと聞いていた。然しそれは幻想だった。去ったものにしか見えない幻想。家を出てしまった以上もう歩き続けるしかないのかもしれない。もしかしたら同じようなノマドと会って、恋に落ちて、家を作るかもしれない。それまでは、私は迷子だ。


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