【愛するということ】こおるかもの読書ノートVol.03
こんにちは、こおるかもです。
今回の読書ノートはこちら!
なんだかエモいタイトルですね。
でも本書は、決して恋愛のHow To本などではなく、人間の愛の根源を探究した立派な学術書であり、精神分析学、または西洋哲学的に価値のある本です。
今回は短いので、要約なしで、全文公開していきます。
ですが、前回に公開した読書ノートとも密接に関連していきますので、ぜひ先にこちらもお読みいただければ幸いです。
それでは行ってみましょう。
導入
愛は技術であって感情ではない。その視点から、愛の類型と共通点・差異の分析、そしてスキルとして愛を成長させる方法を論じる。
そのような主題とした理由は、愛が誤解されているからである。現代では、どうしたら愛される人間になるか、ということに問題にすり替えられているが、本来は、どうしたら人間を愛せるか、という能力の問題であるべきである。
現代がそうなったひとつの理由は、資本主義による商品化にある。つまり、愛においても、自分が市場で商品価値を高める(どうしたら愛されるか)が重要になってしまったことにある。
愛の根源
愛の根源は孤立から脱却したいという欲求である。それで原始人類は、アニミズム(自然信仰)やトーテム(動物信仰)を始めた。このような信仰においては、自然や動物の存在と人間が連続的につながり、一体感を醸成できた。つまりそれは無条件の愛であり、受動的な愛であった。
やがてそれでは満足できず、人間集団に同調が求められるようになった。そのためにできたのが宗教である。しかし宗教においては、愛は“条件付き”であるため、能動的な愛となる。
この人類の精神史の物語は、人間一人の物語と類比的である。すなわち、最初は母による無条件の愛、そしてその後父による条件付きの愛となる。
母性愛(自然への愛)
母性愛は無条件であり、子供の生命を肯定することにある。しかし、ここには二つの側面があることに注意が必要だ。
ひとつは、子供の生命と成長を保護する絶対的に必要な責任のこと。そしてもうひとつは、「生きていることは素晴らしいことだ」という感覚を授けること。後者のことを往々にして軽視しがちだ。
それは、旧約聖書の「乳と蜜の流れる地」で簡潔に表されている。「地」とは自然、母なる大地である。乳とは生命と成長の保護、蜜とは人生の甘美さを象徴する。
父性愛(神への愛)
神への愛は、父親的な条件付きの愛が強調される。実際、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、父権制世界の典型であるとされる。
しかし、こうした宗教においても、母性的愛は強調されている。ユダヤ教では神秘主義が、カトリックではマリア崇拝が、プロテスタントではルターによる恩寵論によって一方的な無条件の愛が示されている。
愛とは何かを与えるということ
与えることは、諦めること、剥ぎ取られることである。
→しかしこれは愛ではない。これは市場原理である。与えることは、犠牲を伴うから、美徳である。
→しかしこれも愛ではない。これは道徳原理である。与えることは、与えることが自らの生命力の表現であり、喜びである。
→これが愛である。そのことはセックスで説明できる。男も女も、与えることで相手を喜ばせ、自分も喜ぶ。そこには諦めも美徳も必要ない。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。
フロイトへの批判
著者(フロム)はフロイトに対して批判的な立場を取る。フロイトは、生物学的唯物論に立っている。だから、フロイトは愛を性衝動としてしかみることができない。そして性衝動は孤独に対する化学的な反応によって生み出される緊張であるとする。緊張は苦しいから、解消されることを求める。それを取り除くことが性的目的であり、性的満足であるとする。
フロムによれば、それでは愛による孤独の解決になっていないという。なぜなら、それならば自慰行為でいいから。そうではなく、愛とは孤独を解決するために「対象との合一」を求める作用である。
アリストテレス論理学と逆説論理学
「対象との合一」を考えるために重要なのが論理学である。西洋の場合、アリストテレス論理学がベースとなる。
アリストテレス論理学とは、AはAである(同一律)と、Aは非Aではない(矛盾律)と、Aでないと同時に非Aでもないということはあり得ない(排中律)に基づく公理系である。
このような公理系では、主体と客体(対象)が合一するという論理が生まれない。
それに対して、東洋の逆説論理学は、この西洋的な公理系を認めない。「Aと非AとはXの属性に従って排除し合わない」という論理が特徴である。
これは、中国やインド、またヘラクレイトスの哲学において主流であり、そして近代においては、弁証法の名においてヘーゲル、マルクスの哲学となった。
逆説論理学の例
老子「厳密に真実である言葉は逆説的であるように見える」
荘子「ひとつであるものはひとつである。ひとつでないものもまたひとつである」
ヘラクレイトス「我々は存在するのであり、存在しないのである」
ソクラテス「知っていながら知らない(と思う)ことが最高の到達点なのだ」
逆説論理学における愛の実践
このような逆説論理学に立つと、愛はどのように理解されるか?
人は、矛盾においてしか知覚できず、つまり何かを論理的思考によって理解することはできない、と考える。だから、思考の中に答えを求めることを究極の目的としてはならないと教える。
じゃあどうするのかといえば、対象との一体感(合一)を経験せよ、ということになる。つまりこれは宗教においては神秘主義であり、行為に重点を置くことになる。
そのように考えることで、バラモン教、仏教(禅ももちろん含む)、道教でも、東洋宗教が正しい信仰ではなく正しい行為を重視することが説明できる。ユダヤ神秘主義も同じである。
そしてマルクスは「哲学は世界を説明するのではなく、世界を変えることだ」と主張した。
やっぱり難しかったよ、という方のための超要約
愛とは積極的に相手(対象)のことを気にかけることであり、究極的には、一体となることである。
一体となるということは、主体と客体における関係性(対価を支払うことや犠牲を払うこと)ではない。そのような関係は市場原理や道徳原理であり、愛とは違う。しかしそのような理解が現代では蔓延している。
本当の愛とは、一体においてお互いが同じように喜び合えるということである。(これを合一と呼ぶことにする)
しかし、この合一という論理は、西洋のアリストテレス以来の論理学からは生まれにくい。なぜなら、矛盾律や排中律を重視するから。
一方、東洋において特徴的な逆説論理学においては、矛盾にこそ真理があるとされる。
これによれば、物事を論理的に理解することは究極的にはできないと考える。そのため、論理を超え、対象との一体感を経験せよ、ということになる。
その結果、東洋宗教は論理よりも行為や実践(修行)を重視するようになった。
そうした影響を受け、マルクスは「哲学は世界を説明するのではなく、世界を変えることだ」と主張した。
こおるかもの感想
マルクスの最後の発言の引用に最も心が惹かれた。それがこの本の読書ノートを書いた最大の理由です。
哲学は、論理パズルではなく、世界を変えるものでなくてはならない。
そしてもうひとつは、西洋的な論理学の枠組みというのは、ただのとある公理系(ルール)を採用した結果に過ぎず、決して普遍的ではないということである。
つまり、矛盾しているから間違っている、とか、最も論理的に整合性が取れたものが正しい、という考え方は、ただのアリストテレス論理学への賛同を述べているに過ぎない、ということ。
論理的に矛盾していても、その中に良質なアイディアや思索があるし、それが大きく世界を変えうる力があるということ。
そう思うと、とても元気が湧いてくるこおるかもでした。
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。
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