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多様性を認めよう、と言うけれど。公共哲学の話。

この記事では、

「多様性を認めるべき」という価値観は、「多様性を認めたくない」という人の価値観を認められない時点で、破綻しているよね。

ということを、すごく難しく説明します。

この記事は読書ノートではありませんが、僕が日ごろ関心のあるテーマについて、ちょっとした小論を書いた後、関連する書籍をいくつか紹介します。


最近の日本では、「宗教二世」や「同性婚」など、ひとびとの旧来の価値観を問い直すような社会問題が話題になっているようです。

実は僕自身、こうしたテーマについて、部分的に当事者であったりもするので、大変関心があるのですが、一方で世間での議論には冷たい視線を送っている面もあります。

ただ、そうした議論の中でも、どうしても気になるのは、少しでも排他的な発言をすると、もれなく炎上してまう、ということです。

それが差別的で人格攻撃的な装いを帯びている場合は別ですが、一方で「多様性を認めろ」と主張しているのにも関わらず、それを認めたくないという人々の価値観が封殺されてしまうのは、筋が通っていないと思います。

実のところ、多様性を認めて欲しいのではなくて、自分の価値観を認めて欲しいだけ、というひとびとが多いのではないでしょうか。

しかし実は、このことこそが、現代社会のありのままの姿を映し出しているように思えるのです。

どういうことか、少し学術的な視点で整理していきたいと思います。


まず政治哲学的には、現代はリベラル社会であり、ひとびとは自分の幸福を自由に追求する権利を有しています。これをリベラリズムと言います。

これは、ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーなどの「社会契約論」を起源としており、ひとびとは国家に対して自らの権利を自由に主張し、国家は国民に「善い生き方=あるべき姿」を提示して愛国心を発揚することで国民を一つにまとめ、バランスを保ってきました。

ですが近・現代になるにつれ、リベラリズムは少しづつ形を変えていきました。追求すべき個人の自由の範囲が拡大してきたのです。例えば、アメリカでは国旗敬礼への強制が「違憲」とされる判決がなされました。なんとこれが1943年の戦時中というから驚きです。戦争において大切なナショナリズムよりも、「国旗を敬礼したくない!」という個人の自由が尊重されるようになったのです。

現代において、例えば同性婚の問題も同様に、「結婚は男女がすべきものである」という昔ながらの価値観をもはや国家が擁護できないほどに、個人の自由が尊重されるようになったとみることができます。

言い換えると、国家はある特定の「善い生き方」を提案することを諦め、ひとびとの自由を手続き的に承認してしまうのが現代のリベラリズムであり、これが現代の国家の役割となっていると言えます。


次に倫理学的に言えば、現代は基本的に功利主義がベースとなっています。

功利主義とは、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルによって始まった、比較的新しい価値体系です。「最大多数の最大幸福」に代表されるように、幸福を数値化できるという前提のもと、それを社会全体で最大化する行為こそが「善」である、とする価値観です。

しかし、それ以上に功利主義において大切なことは、ミルが「自由論」の中で提唱した、「他者危害原則」であると思います。

これは、「他者に干渉することが許されるのは、自衛のためである場合に限る」という原則です。

以前、同性婚に関するニュースで、ある国の政治家がこのように発言しました。

「明日も世界はいつものように回り続けます。だから、大騒ぎするのはやめましょう。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです」

ニュージーランド議員モーリス・ウィリアムソン議員

この発言を素晴らしいと感じる方は、立派な功利主義者です。それは、決してこの発言が普遍的に正しいということではなく、単に功利主義を支持しているという宣言に過ぎないことを意味しています。(そうした方は、某さんが唱える「高齢者の集団自決」というアイディアにも諸手を挙げて賛成されていることと思います)

しかし、ぼくは個人的に、「本当にそれでよいのか?」と思うのです。もちろん、宗教や同性婚や高齢者の問題について、ここで何らかの価値判断を下すつもりもありません。

私が疑問を呈しているのは、

そもそもこの社会には、本当に自分とは全く関係のないことなどが存在するのでしょうか?

そしてこの社会には、人々が共通して信じることのできる「善い生き方」が本当に存在しないのでしょうか?

ということです。

少し言い換えると、現代において最も深刻な問題なのは「何が善であるかについて、もはや合意が成り立たない」ということではないでしょうか。


このことがどうして問題なのかは、実際に世間で行われている、永遠にかみ合わない不毛な言い合いを見ていればわかります。

100人いれば100通りの価値観があり、100通りの正義があり、100通りの言葉遣いがあります。

これは容易にひとびとを分断へと誘い、言葉から現実の暴力へと発展します。さらにはフェイクニュースやポストトゥルースという現象が相まって、何が真実であるかすら特定が困難な時代になっています。

冒頭で述べた通り、「多様性を認めよう」という価値観は必ず袋小路に陥ります。対立する価値観の双方を認めることは絶対にできないからです。したがって、認められるべき多様性には、何らかの規範に基づくジャッジが必ず必要なのです。

そしてそれをすべき国家が、なんら「善い生き方」を示せないのだとしたら、国家は機能不全と言えるのではないでしょうか。

そしてこの問題は、自由主義の最先端であるアメリカで顕著に可視化されるようになり、ヨーロッパや日本でも加速しています。他方では自由主義と相容れない政治体制を持つ国々が力を増しています。

ひとびとは今一度、何が「善い生き方」であるのかについて、共通の理解やそれを探る方法論を追求すべきなのではないかと思うのです。


もちろん、こうした問題に取り組んでいる人々はすでに大勢います。
いわゆる「公共哲学」という政治哲学の分野です。

例えば、ジョン・ロールズという哲学者は、このような思考実験を行いました。

  • ひとびとは「無知のベール」を被ります。これは、自分がどのような社会ステータス(経済力、ジェンダー、宗教、年齢などのありとあらゆるステータス)を持っているかがわからない、という状態を仮定します。

  • その状態でひとびとが集まり、「どんな政治体制や経済政策であれば、すべてのひとが合意できるか」を議論します。

  • そうして得られた合意は、あらゆるひとびとが普遍的に信じることのできる共通善である。

というような思考実験です。

しかし、この理論にはいくつかの批判が考えられます。

第一に、そのような「無知のベール」を想定した人間は、いったいどういう価値観で物事の善悪を判断できるというのでしょうか?考えてみれば、どんな人も、なんかの文化的背景や家庭環境から、なんらかの偏った価値観を持っているはずで、ロールズがここで想定している、どんな価値観にも侵されていない絶対的に価値中立な自己など、想定しようがありません。

第二に、結局のところこの議論から導き出されるのは、「あらゆる価値観を認めましょう」ということに外ならず、結局先に述べたような手続き的なリベラリズムを正当化することにしかならない、というような批判です。

このように、まだまだこうした分野では取り組むべき課題が多いにあるのではないかと思っています。そのため、ぼくもいずれ、こうした分野を本格的に学び、自分に貢献できることを探っていきたいと考えているところです。

まだまだ勉強不足ですが、少しづつこのnoteで自分の考えをシェアしていければと考えています。

小論は以上ですが、最後に、この小論を書く上で参照にした本を紹介します。特に、議論の大枠はマイケル・サンデル先生の「民主制の不満」を基にしています。

一応すべて読破済みなので、もし「この本の詳しい内容が知りたい」というご希望がありましたら、今後優先的に読書ノートの記事を作成しますので、コメント欄でお知らせいただけると嬉しいです。


なお、本稿はさまざまな哲学や社会学の概念を、馴染みのない方にわかりやすく紹介するという目的を兼ねており、細かい定義や歴史的な背景などはかなりデフォルメしています。どうぞ専門的なツッコミはしないでください。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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