『ザ・メニュー』という混沌の一皿(ネタバレ有感想)
『ザ・メニュー』、かなり好きな作品だった。
ビジュアルに惹かれ、予告編しか予備知識のない状態で、美食がテーマ?これもしかすると私の一番嫌いな、アート臭さ全開の“結論ぼかし、雰囲気至上主義”みたいなフワッとしたオシャレ映画の可能性あるぞ……と思いつつ観たのだけれど、そんな心配は取り越し苦労だった。
何なら私の嫌いなその
“物見高い評論家気質のアートありがたがり”
みたいなものに対して良くも悪くもかなりブラックに突いてくる感じさえして、スカッとしたりしつつ……元・一次創作者として、また映画をはじめ様々なものを鑑賞する趣味人としての諸々の感情を刺激されたり掻き回されたりしつつ(笑)。
今回は、話の筋は詳細に書き出しはしないけれど一応核心やラストに触れて感想を書いているので、ネタバレ有りの記事として、映画を既に観た人のみ読んでもらえたら幸い。
※以下ネタバレ注意!!
□レイフ・ファインズ氏の表情の演技に引き込まれ続ける100分
ごくごく限られた者しか料理を味わえないという孤島の超高級レストランのシェフ・スローヴィクを演じたのはレイフ・ファインズ氏(『ハリー・ポッター』シリーズのヴォルデモート役)。
格調高く上品で、高潔な芸術家としての料理人……を思わせるスローヴィクの印象は、物語を通して己の美意識と表現を貫く冷淡なまでの不気味な“ブレなさ”を持ちつつ、対峙する者により微かな揺らぎのように違った表情を内包して見える。
長々と自分の料理の「意味」を語り、特別なメニューを紹介する彼には確かな誇りと、要所要所では若干の怒りにも似た目の色があった。
そして……昔は奉仕する仕事に喜びを感じていた、という彼をほんの一時“昔”ーー古い写真のハンバーガー屋時代ーーに戻したマーゴとあのチーズバーガーのくだり。
あの時、何の変哲もないハンバーガーを作り、マーゴに供し、持ち帰りの包みを用意する一連のスローヴィクの表情には明らかに人が変わったかのような気配が宿る。
しかし明らかな豹変ではない。憑き物が落ちたとか、生まれ変わったとか、そんな全くの別人のそれというわけではないのだ。映画の開始から今まで全く無かった表情がちらりと垣間見えるという、この塩梅が本当に良い。
そんな、若き日の表情を取り戻したかのような一時を過ごしながらも、シェフに心酔するスタッフ達と、シェフの芸術の本質を理解できないであろう客達とでメニューを締めくくる、頑なな鋼鉄の狂気。
予定通りスモアを焼き上げる火を灯す彼には、もう戻れないところまで来てしまった、という後悔や、チーズバーガーで昔を思い出せた幸せのような、メニューの完成を躊躇わせる気持ちは一切生まれなかったのだろうか?
本当に?
毅然と全てを終えるスローヴィク。にもかかわらず、最後まで淡々としている彼にも幾ばくかの気持ちの動きがあったのではないか?と思わずにはいられないレイフ・ファインズ氏の、感情の水面下、絶対に台本には一字一句書き表されていないであろう目や表情の僅かな機微が、とにかく印象的だった。
□痛烈にして答えのない二元論のブラックユーモアが観るものに語りかけ、そしてシニカルに嗤う
シェフのスローヴィクは劇中で
「与える者」と「奪う者」
とに人を分けて考えていた。
与える者、それは料理人であり、大きく捉えれば表現者として作品を世に出す芸術家、何かを能動的に作り出したり、提供する側の人々を指すのだろう。
対して奪う者とは、料理を食べる客や、物事を受け取り消費する側の人々の事である。
しかしここにスローヴィクの、そしてこの映画からの強烈である種攻撃的な、シニカルな批判が含まれる。
食に対しても享受する事に対しても受動的な「奪う者」は、
そのくせ物見高くたいそうな自負すらあり、恩恵だとか、与える者の込めた考えや思惑を正確に受けとれもしないまま勝手に価値を定めている
と言わんばかりの批判的ニュアンスが感じられるのだ。
映画のキャラクターでは、料理オタクのタイラーや、料理評論家、食い道楽なのに食べてきたものを思い出せもしない金持ち、おそらく親の金で苦労も有り難みもなく大学を出た女性がそれに当たると思われる。
スローヴィクは彼らの「受動一辺倒で無能、作り手が料理に込めた意味の本質も分かっていない、そのくせ分かった気でいる」傾向をかなり卑下し嫌っていると思われる。
大金を払ったレストランで、パン料理ですよ、とパンの無いソースだけを出されても
「なるほど素晴らしい」
「これぞ芸術だ」
のように崇高な意味があると自己解決して疑わず、あれこれと価値を見出す客達の滑稽さの露呈でもそれが炙り出されている。
(これは昔Twitterで見た、美術展の会場に何の意味もない私物を置いておいたら客達がアート作品だと思い写真を撮り始めた現象、の滑稽さに近い)
ではこの映画は「物見高い受動的消費者」を皮肉りバッシングするものなのか?というと、どうやらそれだけではない気がする。
スローヴィクのように、何かを作り出し提供する側、つまり与える者にも
受け取る側が読み取れもしない作り手だけの美意識や美学や意味、つまり自己満足を詰め込みまくっては、理解されないことに不満を感じている
という滑稽さがある
という点を同列に語っているように私は思う。
芸術における、
全てが伝わるはずもないのに伝わらないといじけ、理解できない受け手を低く見までする意味づけや自己満足の詰め込み芸術家
vs
次々に消費するだけのくせに正確な見る目がなく勝手に価値を見出す意識高い系
のすれ違い
の宿命とも言える虚しさやおかしみ、無情さ。
二種類の滑稽さの食い違い。
これがこの映画の物語る皮肉であり、この二種類の食い違いを一つの料理の材料としてコースメニューを作り表現しようとしたのがスローヴィクという人物なのではないか?と私は感じた。
この映画が単に「奪うもの批判」でなく「与える者・奪うもの両者の滑稽さとすれ違い」を描いていると思わせる極めつけは、俳優の客に対しスローヴィクが言い放った映画批判のシーンだ。
“お前が出演したあの映画を見たが、休日を無駄にした”
と語るスローヴィク。
そう、ここではこれまで「与える者」目線として人々を見てきたスローヴィクは「奪うもの」視点に陥っている。
料理に込めた意味を理解できず評論したり勝手に価値を決めては有り難がる人々と同じに、映画の作り手・出演者の意図や気持ちを何も理解せず、映画の観客として俳優と作品をばっさり主観だけでこき下ろしているのだ。
思いを込めてものを作り、それが理解されない不満も味わっている「与える者」であるスローヴィクなのに、だ。
つまり、
人は誰でも、
理解されがたい「与える者」にもなりうるし、
同時に、理解した気で消費する「奪うもの」にもなりうる
という皮肉
……なのではないかな、と。
前述のように、与える者と奪うもののすれ違いを一つのメニューにしようとしたスローヴィクは、
与える者サイドの“材料”として
「自分の人生(母親込)と、自分に心酔し命をかけるスタッフ達」
奪うものサイドの“材料”として
「ファンの美食家や評論家や成金ら、スローヴィクの料理の価値と真意の分からない客達」
を用意した。
完璧に二元論を表現する食材を揃えた……はずだった。
なのに、そこにぽっと出のイレギュラーとして混ざりこんだ客が、予定外の客であるマーゴだった。
マーゴは物見高い美食家でもなく、レストランスタッフや同行者のタイラーのように、スローヴィクに心酔してもいない。
食材の条件をどちらも満たしていない彼女は、スローヴィクの人生をかけた一世一代の芸術にして「完璧なメニュー」には、存在してはならない不要な要素だったのだ。
急な参加者である上、高級な食事の前に煙草を吸い、自分の味覚と価値観だけで物を言うマーゴに気づいたスローヴィクは彼女を「場違いだ」として当初から“メニュー”からの排除をしようとしていた。
結果として、そのマーゴは、スローヴィクの部屋で見た
「ハンバーガー屋で働いていた頃の古い写真」
と、彼の
「昔は奉仕するのが楽しかった」
という言葉からスローヴィクを操るかのように一瞬、昔の情熱と姿勢を呼び覚まし、“メニュー”からの脱出を遂げる。
スローヴィクも、場違いな材料であった彼女を抜きにして“メニュー”のラストであるデザートを完成させたというわけだ。
メニューを、そのモチーフである二元論をぶち壊す存在だったマーゴ。
去っていく彼女の背後で、彼女に揺り動かされつつも、シェフとして芸術家として「予定通り」スローヴィクは炎の中でスモアを作り、己の人生であり、芸術を巡る二元論を調理した大いなるメニューを仕上げきった。
これぞまさに、料理人、そして「与える者」としてのスローヴィクの矜持と全て。
しかしまた、そんな命をかけたメニューの覚え書きさえ、芸術家としてのこだわりも美食家としての意識も持たないマーゴにとっては、口拭く紙にもなりゃしねえ……のではないだろうか。
映画は徹底して最後の最後まで、芸術の“価値”の無情な不安定さーーしかしこれこそが明確な本質ーーを描ききったと、私には思えた。
□後腐れなく笑える明朗な黒い皮肉
これだけの痛烈な皮肉と残酷な描写を全編通して撒き散らしたにも関わらず、個人的にこの映画には、説教臭さや上から目線、教訓の押しつけ等を向けられたような「後味の悪さ」を意外な程感じなかった。
あれは、スローヴィクのエゴとグルメぶった客達のエゴが坩堝となった、露悪的でナンセンスで理不尽でクレイジーなメニューの顛末の爆炎だというのに、まるで『キングスマン』の脳味噌炸裂シーンくらい、黒い笑い一つで観終われた謎すぎる爽やかささえ感じた。
一体この感じは何なんだろうか。
醜悪な暴力や死やエゴの応酬……そんな生臭い食材ばかりを用いて尚、この映画は胃もたれもせず後味スッキリだ。
これが手練れのシェフの料理というものか。
鑑賞翌日の今、私は既にこの映画をもう一度観に行くつもりでいる。
くれぐれも、傲慢で勝手な価値観を貼りつけて有り難がる“奪うもの”にはならないように、再びこの映画と向き合いたい。
その前に、今夜は二度めの『ラストナイト・イン・ソーホー』を観ながらチーズバーガーを食べようね。
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