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ブルームーン

バーに行って、1人で飲むのが好きだ。1人なら好きなペースで、好きなお酒を、好きなように飲める。それに、新しい友人ができたり、その場限りで誰かと話したりするのも楽しい。

要は、人に気を使わなくて良い、マイペースな時間が私には必要なのだ。

その日も、街を歩きながらふらりと初見のバーに入った。

「1人、空いてますか?」
「カウンター、どうぞ。」

人当たりの良い、40代くらいのマスターがにこりと微笑みながら通してくれた。カウンター10席弱、テーブル2席。店内は焦げ茶を基調としたアンティーク風で、オレンジ色のライトが店内をほんのり照らしていた。

カウンターから内装を眺め、良い雰囲気のお店だなあと思っていると、マスターに何を飲むか訊ねられた。なんでもありますよ、と。

とりあえず、初めてのお店なので無難にマティーニを頼んでおいた。王道だけど、腕の良いバーテンダーさんが作るほど美味しい気がする。迷ったり、初めてのお店だったりするときは、とりあえずマティーニを頼む癖が、いつの間にかついていた。

どこのお店か忘れないよう、お店の名前がわかるものとマティーニのグラスを並べ、スマホで写真を撮る。

良い雰囲気のお店で飲む、美味しいマティーニが大好きだ。マスターはカクテルが好きらしく、自分でも飲むから、こだわるうちに作るのも上手くなったと言っていた。

マスターとときどき会話をしながら、ゆっくり飲んでいるとお店のドアが開き、ベルの音がした。音の方を見ると、女性客が1人。

「1人、いけますか?」
「カウンター、どうぞ。」

マスターは私のときと同じように女性をカウンターに座るよう促す。私から2つほど席を空けて、彼女が座った。様子から察するに、彼女も初見さんなのだろう。

黒髪のウルフヘアに、シルバーのピアス。整った顔立ちも相まってクールな雰囲気を纏っている。ジロジロ見るのもいけないと思ったが、つい魅入ってしまった。

「お姉さん、乾杯。」

手元にグラスが置かれると、彼女は私に声をかけてきた。せっかくの出会いだから、と微笑まれ、クールな印象と裏腹に優しそうな人なのかも、と少し安心する。やや距離がある席に座っていたので、お互いその場でグラスを持ち上げて「乾杯」と声をかけあった。

彼女は綺麗な青色のカクテルを飲んでいた。甘党だから、つい甘いカクテルばかり飲んでしまうと話していたことを覚えている。

煙草が似合う見た目に反して、彼女は煙草を嫌っていた。匂いが苦手だと言っていた。私も煙草は吸わないと話したら、彼女から隣の席に座ることを提案してくれた。

「煙草吸われないなら、隣に座っても良いですか?煙の匂いが苦手で。でもお姉さんが吸わないなら、もっと話したいし、移動しようかなって。」

なるほど。私が煙草を吸うかもしれないから、最初に距離を取っていたのか。

「もちろん。せっかくだから、隣、座って話しましょう。」

お互い初見ですよね、良い雰囲気のお店ですね、普段どこで飲まれるんですか、なんて話していると、ついお酒が進んでしまった。彼女との会話は心地よく、テンポが合うというのか、ストレスを感じなかった。

気づけば終電の時間が近づいてきた。そろそろ終電だと彼女に伝えてマスターにお会計を出してもらう。彼女はまだ飲むのだろうか。家は近いと言っていたけれど。私がお会計を済ませて席を立つと、彼女がマスターに声をかけた。

「すみません。見送りに行っても?」
「どうぞ。」

そんな、良いのにと言ったけれど、彼女は出口の外まで来てくれた。

「ありがとう。今日は楽しかったです。」
「こちらこそ。気をつけて帰ってね」
「うん、ありがとう。引き続き楽しんで。」

軽く片手を上げつつ歩き出そうとすると、上げた手を彼女に掴まれた。私がどうしたの?と聞く前に、彼女から軽いキスをされた。いたずらっ子のように目を細めて笑う彼女の顔が目の前にあって、多分私の顔は真っ赤になっていたと思う。

「終電、行っちゃうよ」

彼女の言葉にハッとして時計を確認すると、走らないと間に合わない時刻になっていた。どうして、とか、聞きたいことは山ほどあったけれど、仕方なく駅に向かって走った。

なんとか終電に乗り込み、息を整えながら気づいた。彼女の連絡先を知らないままだ。聞きたいことがあるのに、また会いたいのに、失敗した。話すのに夢中で、連絡先の交換を先にしておくべきだったと強く後悔した。

その後、同じ曜日の同じ時間帯に、何度かその店に顔を出した。色々なカクテルを飲んだし、マスターともすっかり仲良くなれた。しかし、彼女とまた会えることはなかった。

彼女がどうして私に声をかけたのか、どうして私にキスをしたのか、私は知らないままだ。

今日も私は1人、カウンターに座って青いカクテルを飲む。

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