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美味しんぼ38巻における「かん水」描写への疑問を解決する(前編) ~またはラーメン三銃士は如何にしてスフィンクスの罠にかかったか~
有名なグルメ漫画である『美味しんぼ』において、中華麺の製造時に入れる「かん水」はこう表現された。
「ラーメン界のスフィンクス」であると。
※注:「ラーメン屋のスフィンクス」と言ってるが、誤植
一体何がスフィンクスの謎だというのか。
「かん水がなくても麺のコシが出るのは確かだが、かん水が麺のコシを出すのも確か」、これが解答不能の謎であると言うのだ。
果たしてかん水を入れる理由は本当に解答不能なのだろうか。
これははっきり言って誤りである。
私の調査によれば、かん水にははっきりとした「入れる理由」が存在しており、美味しんぼ38巻中で語られた「かん水など入れる必要がない」という結論には至らない。
なぜ美味しんぼは誤った結論に至ってしまったのか。
それはかん水が麺のコシを出すメカニズムが、他の加工食品における製法と微妙に紛らわしく、ミスリードを起こしやすいものだったからだ。
いわばスフィンクスの仕掛けた罠に、乃士勇造氏――いや美味しんぼの原作者である雁屋哲氏が見事にハマってしまったと言っていいだろう。
それでは、ラーメン三銃士、そして原作者が見事にが落ちてしまった陥穽について説明していこう。
<1.かん水とは何か>
食品添加物製造基準によると、かん水とはこのように規定されている。
かんすいを製造又は加工する場合は、それぞれの成分規格に適合する
炭酸カリウム(無水)、炭酸ナトリウム、炭酸水素ナトリウム、
リン酸類のカリウム塩又はナトリウム塩を原料とし、
その1種若しくは2種以上を混合したもの
又はこれらの水溶液若しくは小麦粉で希釈したものでなければならない。
上記は美味しんぼの作中でも解説されており、間違っていない。
さらに作中では、かん水の成分をベースに3つの種類に分け、それらを用いて麺を打つ(手で引き延ばす「拉麺」)様子を描いている。
その3つとは
イ:炭酸カリウム・炭酸ナトリウム・重合リン酸塩が全て入ったもの
ロ:重合リン酸塩のみ入ったもの
ハ:炭酸カリウム・炭酸ナトリウムのみ入ったもの
これらを使って練り上げた麺を手打ちしたところ、
イ:手延べ式で製麺できた
ロ:手延べ式で製麺できた
ハ:麺が途中で切れた。
しかも堅いだけでしなやかなコシが何もない結果に終わった。このデータを基に、美味しんぼの主人公の一人である栗田ゆう子は
『中華麺にしなやかなコシを与えていたのは(中略)重合リン酸塩だったのね!』
と結論付けている。
それに合わせ、同じく主人公の一人である山岡士郎は
・重合リン酸塩は蛋白質を溶けやすくする力がある
・グリアジンとグルテニンが非常に緊密にからまり、柔軟で弾力のあるグルテンが出来る
・重合リン酸塩はカマボコのコシを出すためにも使われる
・アルカリはタンパク質を固くし、柔軟性を与えない
このように解説した。その上で、
『昔は小麦粉の精製技術が低く、塩だけでは粘り気のある生地をこねることは難しかった』
『塩と重合リン酸塩を併用すれば蛋白質をよく溶かして、より良いグルテンを作る』
『現在の製粉技術なら(中略)塩だけで十分なコシを引き出せる上質な小麦粉を作れる』
と語ったことから、作中人物の一人が「炭酸ナトリウムと炭酸カリウムは余計なものだった」とまで断言した。
雁屋氏はこの話において、かん水は製麺において不要であり、「解答不能だと思ったかん水の謎が簡単に解けてしまった!」と結論付けた。
だが、果たして本当にそうなのだろうか。
<2.本当にかん水は不要なのか>
神奈川県内で有名店「支那そばや」を経営していた故・佐野実氏は自らの足で最高のラーメン材料を世界中から探し回り、厳選して使用していたことで知られている。
そんな彼が選び抜いた材料の一つに
が存在する。※下の写真は木曽路物産のHPより
佐野氏によると、このかん水を使うことで茹で湯が濁らず、アンモニア臭もせず、スープの味をピュアなまま保てるとしている。
しかもこのかん水は、美味しんぼが「麺のコシを出す」と結論付けたリン酸塩類を含んでおらず、不要と言い切った炭酸ナトリウムが主成分なのである。
ラーメンの鬼と呼ばれ、一切の妥協がない調理と製麺で知られた彼が一体どうしてかん水なる「無意味な」材料を使っているのか。
漫画原作者である雁屋哲氏と、実際にラーメン屋を長く運営した佐野氏、果たしてどちらが本当のことを言っているのか。
ここでかん水が持つ本当の作用について書く必要が出てくる。
小麦粉はタンパク質を多く含む穀物であるが、木下製粉さんによれば小麦内のタンパク質を五種類に分けて解説している。
その中でグリアジンとグルテニンは
・プロラミン(例:グリアジン)→ 水、中性塩溶液には溶けない、アルコールに溶ける
・グルテリン(例:グルテニン)→ 水、中性塩溶液、アルコールには溶けない、薄い酸、塩基(アルカリ)に溶ける
このように説明している。
すなわちグルテンは水には溶けない物質であることが分かるし、美味しんぼでも『代用ガム』という作品で、グルテンが水溶性でないことを利用してガムを作る話を描いている。
これらのタンパク質は水溶性ではないが、水分子と出会うことで結合してグルテンを作り、麺のコシを産み出す。
だがここで気付いてほしい。
グルテンの材料であるグリアジンもグルテニンも「中性塩溶液(すなわち食塩水)には溶けない」のである。
確かに水分子と出会うことでタンパク質が結合するが、塩は結合においては何の働きもしていないのだ。
逆に塩基(アルカリ)の溶液には溶けるということは
塩はタンパク質の結合の役に立たないが、アルカリは役に立っている
ことが判明する。
かん水、すなわち炭酸ナトリウムや炭酸カリウム水溶液は、まさにこの塩基溶液。すなわちタンパク質を溶かしてグルテンをより良く形成させるのは、塩ではなくかん水の働きであることが分かってしまう。
ここで平成18年に書かれた『中華麺の物性におよぼすかん水の影響』という論文を見てみると(2006 相模女子大学、大妻女子大学)
・かん水麺ではグルテンの一部がアルカリ性であるかん水で溶解し、この溶解したグルテンがでんぷん粒の間に広がっていた
・その結果でんぷん粒の膨潤が妨げられて、かん水麺の外層部の硬さが固くなる
ことが確かめられている。
純水だけで練った麺ではこうした事象は見られなかったという。
こうなると大きな問題となるのは、作中で行われた実験で
炭酸ナトリウム、炭酸カリウムだけの溶液では麺がブツブツ切れてしまった
描写が存在したことであろう。
今まで述べてきた通り、かん水には下記のような働きがある。
・アルカリ溶液であるかん水はタンパク質を溶かす
・かん水を使用した麺はグルテンが溶解し、硬さが上がる
中国国内で有名な麺料理の一つである蘭州牛肉麺では、製麺時に昔からかん水を使っている。由緒正しい店では今でもヨモギの仲間を燃やして灰にして、その汁を使っている。
灰汁はれっきとしたアルカリ溶液(炭酸カリウム)であり、今でも長崎ちゃんぽんや沖縄そばの製麺時には使われることがある。
そして蘭州牛肉麺は手延べ式の製麺で知られている。
美味しんぼの作中で乃士氏が行っていた製麺方法である。しかも「ブツブツ切れるはずの」炭酸カリウム入り麺を引き延ばしているのだ。
もちろんただの灰汁なので、重合リン酸塩など入っていない。
この時点で、何かが明らかにおかしいことに気付くだろう。
「もしかしたら雁屋氏は、製麺実験を実際には行っていないのではないか?」
との疑念が湧くが、これは悪意に満ちた決めつけであろう。
私は美味しんぼのファンであり、きちんと実験をしたものであると信じたい。だが作品内の描写はどう考えても事実に反しており、これは正さねばならない。
もしかすると
「ロ:重合リン酸塩だけの溶液」と、
「ハ:炭酸ナトリウム、カリウムだけの溶液」、
この2つの瓶のラベルを張り間違えたのではなかろうか。
重合リン酸塩だけであれば、水分の含有量によってはブツブツ切れてもおかしくない。炭酸ナトリウムであれば麺が伸びるはずなので、切れることはない。実に優しい(かつ強引な)結論に達した。
とはいえ作中人物が述べていた「かん水なんてまったく使う必要がない」は虚偽であることが判明してしまった。佐野実氏も製麺に使っていたように、かん水は必要であり、意味があったのだ。
……が、ここで一度立ち止まることとする。
もし本当にかん水の瓶を間違えたのだとすれば「重合リン酸塩はタンパク質に影響しない」ことになってしまう。
だがソーセージやカマボコを作る際、重合リン酸塩は「結着剤」という名目の食品添加物として実際に使用されている。
リン酸塩に結着、すなわちタンパク質の結合を助ける働きがあるのだとすれば、麺においても重要性があるのではなかろうか。
次回はこのリン酸塩について掘り下げることにする。(続く)
「競馬最強の法則」にて血統理論記事を短期連載しておりました。血統の世界は日々世代を変えてゆくものだけに、常に新しい視点で旧来のやり方にとらわれない発想をお伝えしたいと思います。