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美味しんぼ38巻における「かん水」描写への疑問を解決する(中編) ~タンパク質は異なもの、味なもの~

前回はかん水とは何か、その働きは……という観点の記事でした。

<3.重合リン酸塩とは何か>

 テーマはラーメンであるが、最初は動物タンパクの話から始めたい。

 中学の理科の時間に、ATP(アデノシン3リン酸)という単語を習った記憶がないだろうか。
 食品添加物として認められているポリリン酸塩やピロリン酸塩といった物質も、ATPと同じく「リン酸」であり、似た性質を持つのである。

 どうしてこんな話から始めるのか。
 実はこの2つの性質が似ていることが、美味しんぼの作者である雁屋哲氏が大きなミスをしてしまった原因だったのだ。

 ポリリン酸塩などの重合リン酸塩は、食品では肉同士をくっつけるための「結着剤」として使用が認められている。

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 なお上記のセリフであるが、ポリリン酸塩は漂白剤ではないので雁屋氏の書き間違いと推測される。

 雁屋哲氏は『野望の王国』などの原作者として知られる人物である。
 そんな彼が美味しんぼを描き始めてからは食通と評判が立ち、その結果仙台にある「精養軒」というレストランに招待を受けることになった。

 実は私が美味しんぼを知ったのは、時刻表の広告欄に

「仙台精養軒:美味しんぼの雁屋哲氏監修のソーセージ」

 というものを見たことがきっかけである。
 だから16巻で精養軒が出てきたときは「ここか!」と膝を叩いたものだ。

 雁屋氏は美味しんぼ16巻『五十年目の味覚』の作中で

 ・良い豚肉であれば塩だけで粘りが出る

 ・よって結着剤のポリリン酸塩は不要である

 ということを強調していた。

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 ここに関して雁屋氏はまったく間違っていない。
 だが「動物性のタンパク質であれば」の但し書きが付く。
 
 タンパク質と一口に言っても、多くの種類がある。
 たとえば人間にも含まれる血漿タンパク、アルブミンは水溶性である。
 それに対して小麦タンパク(グルテニン)は塩基水溶液に溶ける。

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※上記は木下製粉株式会社のHPより


 今度は動物性タンパク質を見てみる。

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※上記は東京大学大学院理学系研究科・理学部のページより

 動物性タンパク質で「肉の味」を決めるのは筋原線維と呼ばれる細胞であり、それはミオシンとアクチンという物質によって構成される。これは牛でも豚でも魚でも同じである。

 実はこのうちのミオシンが塩溶性、すなわち食塩で溶けるのだ。

 塩を入れて混ぜると溶け、粘りを産み出すタンパク質とはこのミオシンのことである。ソーセージでもカマボコでもこれは同じだ。

 だがどんな肉でもミオシンがすんなり溶けるとは限らない。

 死後硬直という言葉を聞いたことがあると思うが、動物は死ぬと徐々に筋肉が堅くなっていく。

 これは呼吸停止によってATPが供給されなくなり、ミオシンとアクチンが結合し、アクトミオシンという物質に変化してしまったことで起こる。

 こうなってしまうと豚肉のタンパク質は塩を入れてもうまく溶けず、肉がバラバラのままとなってしまう。

 ※ちなみにカマボコは塩で丹念に練ることでわざとアクトミオシンを作り、加熱した際にゲル化して弾力を産み出しているが、ここでは割愛する。

 では生きている動物では硬直が起きないのはなぜか。

 それは呼吸によってATP(アデノシン3リン酸)が供給されていると、ミオシンとアクチンの結合を妨げられるからである。

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 美味しんぼでは「活けジメ」という方法で釣れたばかりの魚の血を抜いたことが描かれている。

 こうすることで魚が暴れず、急激にATPを消耗しない――すなわちミオシンとアクチンが結合しない状態を長く保つことが可能なのだ。

 さてここで重合リン酸塩の話に移る。
 タンパク質を硬直させないためにはATPを失わせないことだと書いた。

 実は重合リン酸塩はATPと同じくリン酸を含むことから、(超簡単に書けば)ミオシンとアクチンの結合を妨げる働きがあるのだ。

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 アクトミオシンを再びミオシンに戻し、塩だけで粘りが出る状態に戻すがゆえに、少々古くなった肉でもソーセージを作れるのである。

 カマボコでは冷蔵する前に重合リン酸塩が加えられる。これは冷蔵時にタンパク質が変性するのを防ぐ目的があり、これもやはりミオシンを保つためである。

 これが重合リン酸塩が結着剤と呼ばれるゆえんである。
 一般にイメージされるような、肉同士をくっつける働きではないのがポイントだ。

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 実は、雁屋氏がかん水の働きを誤って書いてしまった原因はここにある。

 彼がソーセージづくりの知識を、悪く言えば中途半端に持っていたことが悲劇の始まりであった。
 かつてカマボコについて調べたこともあり、彼の中では

 結着剤とは肉を接着剤のようにくっつけるもの

 結着剤である重合リン酸塩は、タンパク質を溶かしてくっつけるもの

 と間違って覚えてしまったのだろう。

 重合リン酸塩はミオシンの抽出に関係する物質である。
 ミオシンは塩溶性だから、塩と重合リン酸塩を混ぜればよく溶ける。これは間違いではない。

 だが小麦のタンパク質は塩溶性のミオシンではなく、塩基に溶けるグリアニンである。重合リン酸塩をいくら入れたところで、小麦のタンパク質は溶けない。

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 つまり中華麺におけるかん水の主成分は、決して重合リン酸塩などではあり得ないのだ。

 ソーセージの製法を知っていたばかりに、全てのタンパク質に同じロジックを適用してしまった。ここに雁屋氏のかん水論崩壊のきっかけがあった。

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2020.09.27追記

重合リン酸塩にタンパク質を溶かす効果がないことは先述の通りだが、他に効能があることが判明した。

重合リン酸塩には、麺を練る際の水に含まれる金属イオンを沈殿させる「キレート」という働きがある。金属イオンは麺の吸水性や粘弾性を悪化させる要素であるため、それを除去する効能があるという。

ただし、かん水は製麺の際、使用する水と混ぜて一気に入れるものである。一度小麦粉を溶かして不純物を沈殿させる……という工程は存在しないため、結局沈殿しようが凝集しようが麺に練り込まれてしまうのだが。

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 次回は「塩」の話を取り上げる。(続く)


「競馬最強の法則」にて血統理論記事を短期連載しておりました。血統の世界は日々世代を変えてゆくものだけに、常に新しい視点で旧来のやり方にとらわれない発想をお伝えしたいと思います。