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梅の頃、包み紙の匂いを思う

母方の祖母は、ウメという名前だった。梅の季節に生まれたから、という話だったけれど、そういえば、わたしは誕生日を知らない。毎年、梅の頃になると、今時分なのかなぁと顔が浮かぶ。祖母の季節。

祖母は同じ市内に住んでいて、よくバスに乗って泊まりに来てくれた。
手土産は決まって、おだんごと豆大福。町の中心部にある神社の、向かいの和菓子屋さんのもので、バスを乗り継ぐ時に買うのだと教えてくれた。だんごは、餡子、海苔が巻かれたしょうゆ味、あやめ、の三種類のどれか(わたしの生まれ育った場所では、みたらしだんごをあやめだんごと呼んでいる)。

小さいわたしは、つややかで麗しく、とろんと甘じょっぱいあやめが好物だった。口の周りをべたべたにしながら、夢中で食べた。綺麗に食べられるようになった頃には、海苔のほうが好きになっていたのだけれど。

大福もだんごも大好きで、優しく穏やかな祖母も無論大好きで、はしゃいで祖母を出迎え、包装紙をひらいた。そのひと時は、とても幸福だった。今ならわかる。祖母が来ると母も喜んでいたのだ。来客自体が珍しい静かな家庭の、いつもの、安心がかえって滞ったような閉じた空気、が、ほっと緩み、その温度を数度あげるのが、快かった。

菓子を包む、屋号の入った少し薄めの包装紙の、独特の匂い。あれはインクの匂いなのだろうか、あの匂いを嗅ぐと、実家の居間で何度も味わった幸せが、たちまち押し寄せてくる。だんごや大福そのものを食べる時よりも、ずっと直接的に。

下校すると庭先で草むしりをしながら出迎えてくれた。一緒にお風呂に入ってくれた。母のいないお昼にすいとんを作ってくれた。父も母も末っ子で、我が家は核家族だったのだけれど、祖母からは、暮らしに近い思い出を、たくさん与えてもらっていることに気づく。

いつも穏やかで、控えめで、賑やかな場でも、静かな場でも、そっと笑顔で佇む可愛い人だった。一緒に外食をしてわたしの注文が忘れられていた時、と、母がわたしにあまりに厳しすぎた時(なんの話題であったかは全く覚えてない)、の2度だけ、「可哀想じゃないの」と、怒ってくれた。ひたむきに。

祖母の乗っていたバスが、一時間に一本しかないような、極めて不便なものだと知ったのは、随分大きくなってからのことだ。


わたしが高校三年生の夏、祖母は突然に逝ってしまった。食事中に意識を失って、同居していたおじ家族は食べ物を詰まらせたのだと思ったそうだが、くも膜下出血だった。

その数日前。二階の自室で勉強していると、玄関から母が「(祖母宅へ)ちょっと行ってくる」と、わたしに声をかけ出て行った。あっわたしも行きたい!と、胸騒ぎに近く思い、部屋から出たが間に合わず、閉まったドアをしばらく見つめてから、うしろから髪を引っ張られるような気持ちで勉強を続けた。行こうと思えば車で30分ほどの、気楽な距離感なのに、と、不思議な心持ちだった。虫の知らせというやつなのか。その日、祖母は外出中で、母も会うことは叶わなかったそう。

病気をしていたわけでもなし、みんな呆然としていた。祖母とたくさんの思い出がある従姉は、婚約者に支えられながら「ばあちゃん、ばあちゃん、、」と、ぐしゃぐしゃに泣いていたけれど、ICUで機械をとめるという臨終も、祖母の担当ではない医師だか看護師だかが部屋の隅で談笑しているのも、違和感しかなくて、わたしは突然の悲しみにうまく焦点が合わせられなかった。

葬儀の後、帰宅してから、母はわたしを相手にさめざめと泣きながらお酒を重ねた。娘たちの前でよく泣くわたしと違って、いつでも大人然としていた母が、わたしに涙をみせ乱れたのはその時が初めてだった。

そのまま秋になり、冬になり、寝食以外は勉強をするような日々を経て受験をして、春には故郷を離れた。祖母を懐かしく思い返して昨日から打ち始めたこの文章、幸せや感謝を数えるたびに涙が溢れて止まらなくなり、思いがけないことだった。わたしはまだ、喪の作業の中途、だったのかもしれない。

近々、梅の枝を買ってきて、飾ろう。母に、祖母の誕生日も、聞いてみよう。
懐かしいあの和菓子屋さんの包み紙の匂いが、恋しい。


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