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遊覧船
数年前の秋、私は年老いた両親を連れて旅行に行くことになった。
初日、私が運転する車で向かったのはとある湖。
空は秋晴れが続き、肌に触れる風は一段と冷たくなっていた。
湖の周囲に立つ木々の葉はどれも赤く色づき、美しい紅葉に染まっていた。
そんな紅葉を楽しむために、たくさんの観光客が湖に訪れていた。
広大な湖には遊覧船が何隻か走航していて、それを見た母は「せっかく来たのだから」と乗ることになった。
遊覧船に乗り込んだ私と母は、景色を楽しむために真っ先に甲板に向かおうとすると、父は景色に興味がないようで、くたびれたからと船内のベンチに腰かけた。
私と母が甲板に出ると、そこにはすでにたくさん観光客がいて賑わっていた。
そして出航の時刻になると、遊覧船はゆっくりと走り始めた。
遊覧船は湖を一周するコースで、のんびりと景色を楽しむというものだった。
走航中、母は友達に見せてあげるのだと、スマホのカメラで夢中になって景色を撮っていた。周りの観光客も同じだった。
私は母を横目に自分の目で景色を楽しんだり、向かい風を肌に感じながら湖の水面を眺めたりしていた。
遊覧船が湖の中心付近に来た時、遠目で大きく盛り上がった黒い塊のようなものが見えた。
水面に浮かんだそれは、走航する遊覧船が起こした波で揺れているようだった。
私はそれを観光客が捨てたゴミだと思い嫌悪感を抱いた。
黒い塊はだんだんと遊覧船の方に近づいてきて、その形がわかるようになった。
それはゴミの塊なんかではなく、人の形をしていた。
まるで空気で膨れ上がった黒いビニール人形にも見えた。
うつ伏せに漂い、背中部分に何か黒いものが蠢いていた。
私は驚いて声をあげた。
「何よ、突然。びっくりするじゃない」
私の声に驚いた母がスマホを片手にそう言った。
「あそこに人っぽいの浮いてない?」
遊覧船には他に観光客も乗っている。
私はパニックにならないように、母にだけ聞こえるように小声で伝えながら指を差した。
しかし、母は私が指差す方を見ながら、
「何を言ってるの?」
と怪訝な顔をしてこちらを向いた。
「湖に人が浮いてるなんて嘘ついて。罰が当たるわよ」
そう言って、母は怒って父がいる船内に行ってしまった。
「うそ。お母さんには見えないの?」
私が見る限り、湖には確かに人らしきものがうつ伏せで浮いている。
そして、それは波に逆らいながら自らの意思で遊覧船に近づいて来ていた。
黒い髪の毛が水面に揺らめき、背中には大量の黒い虫が蠢いているようだった。
どうやら男性のようだ。
見てはいけないものだとわかりながらも、私はその視線を外すことが出来なかった。
すると、それは徐に体をグネリと捻りだした。
首は折れているのか柔らかく、体だけが仰向けになった。
その体には藻や苔がこびりつき、腹部にも黒い虫がびっしりと張り付いていた。
私はそれをみて、胃の中のものが込み上げてきた。
そして、捻じれた首が元に戻ろうとして、「顔」がゆっくりと水面から出ようとしていた。
”このままでは顔を見てしまう”
私の心臓は激しく鼓動して息苦しくなった。
その時、背後から誰かに背中を叩かれ、その拍子に体のバランスを崩した。おかげで向けていた視線を外せた。
振り返ると、そこには着物姿の上品なおばあさんが立っていた。
「あら、ごめんなさい。人違い」
そう言って、おばあさんは微笑んで立ち去ろうとした。
「い、いえ。ありがとうございます」
思わず感謝の言葉が出た。
おばあさんに背中を叩いてもらわなかったら、私は顔を見てしまうところだったから。
すると、私に背を向けながらおばあさんは言った。
「あまり見ない方がいいわよ」
私はその言葉にハッとした。
きっと、おばあさんにもあれが見えていたんだと。
そう思いながら、私は港に着くまでのあいだ船内で過ごした。
港に到着後、遊覧船を下りてから湖を見渡してみた。
けれど、それらしきものは見当たらなかった。
母にはやはり見えていないようだった。
とにかく、私は「顔」を見なくてよかったと安堵していた。
けれど、その夜のことだった。
私は全身の寒気と息苦しさに襲われた。
寝ている両親に助けを求めようとしても、声は出ず体は動かない。
ガタガタと震えながら、最後には気絶するように眠りについた。
翌朝、目が覚めると背中に違和感があった。
見れば、布団はびっしょりと濡れていて、そのシミは湖の水のように僅かに茶色く濁っていた。
そして、体中に湿疹が出来ていて、それがたまらなく痒かった。
家に帰ってから、母に湖で撮った写真の画像を見せてもらった。
そのほとんどが遊覧船から見えた景色で、ピンボケや指の写り込みの失敗写真が多かった。
その中で一枚、遊覧船の船内から甲板に向けて写した写真があった。
私も写っていて、私の背中を叩いてくれたあのおばあさんの方を向いて立っていた。
おばあさんも、私の方を見て微笑んでいる。
その写真に違和感を覚え、私は画像を拡大してみた。
すると、そこには私の背後にある甲板の手すりに掴まる手がはっきりと写っていたのだった。
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