悪魔が棲む家
離婚を期にシングルマザーとなった麗子は、高校生の娘(はるか)と五歳の息子(海翔)と実家で暮らしていたが、自身の勤務先やはるかの通う高校までの距離が遠く、年老いた両親に体力が有り余っている海翔の面倒を見てもらうことに引け目を感じはじめていた。
そんなある時、実家に訪れていた叔父に麗子はそれとなく相談を持ち掛けた。
すると後日、叔父の知り合いだという人物から郵送で大きな封筒が届いた。
中にはとある借家の資料と写真、そして契約書が入っていた。
その人物は送られてきた資料に載っている家の大家で、現在空き家になっているその家を安く貸してくれるということだった。
同封されていた写真には、周辺の様子や借家の外観と内観が写っていた。
閑静な住宅街の隅に、ひっそりと佇む木造二階建ての家。
外観はかなり古めかしく、庭には大きな桜の木と草木が生い茂っていた。
だが室内は改装されていて、清潔感のある明るい部屋であった。
間取りからも、三人で暮らすには十分な広さの家。
麗子は入居を決意し、子供達も喜んでいた。
引越し日が決まった数日前。
麗子は内見と掃除を兼ね、入居予定の家に行ってみることにした。
叔父にそのことを伝えると、大家からの連絡により鍵はポストの中に入れておくとだけ伝えられた。
少し違和感を覚えながらも、麗子は海翔を連れて書類に書かれた住所に向かった。
そこは写真通りの場所と外観だった。
門扉の横にあるひどく錆びついたポストを開けると、そこには銀の鈴がついた鍵が放り投げられていた。
鍵を手にした麗子は錆びた門扉を開け、ゴツゴツとした石通路を歩いて玄関に向かった。少し建付けの悪い玄関のドアを無理矢理にこじ開けると、ドアは騒がしく開いた。
二人が家に入ろうとした時、麗子は背後から視線を感じて咄嗟に振り返った。
すると、家の前で買い物袋を提げた年配の女性が、麗子の方をじっと見つめて立っていた。
麗子は会釈をしたが、年配の女性は反応することなく立ち去った。
感じが悪い人。
麗子はそう呟きながら、海翔の手を引いて家の中に入った。
玄関に足を踏む入れた瞬間、梅雨時のようなじっとりとした生ぬるい空気が肌に触れたが、廊下の床や壁はきちんと掃除がされていて綺麗だった。
そして、廊下にはスリッパが三つ用意されていた。
大家の話では、この家には以前住んでいた家族の私物がいくつも残されているという。
彼らは家賃を何ヶ月も滞納した挙句に失踪した。
連絡もつかず、保証人との交渉で私物は処分することになっていた。
だから、残っている物は自由に使っていいとのことだった。
生活感のある玄関。
下駄箱の上には古い黒電話とオシャレなガラスの灰皿。
置時計は今も時を刻んでいる。
その隣には小さな額に入った風景写真が置かれ、廊下の壁にも風景画や装飾された丸い鏡が掛けられていた。
だが、鏡の方は割れていてその役目を果たしていなかった。
廊下には合計四つのドアと二階へ続く階段があり、ドアはそれぞれ収納、トイレ、浴室、居間に繋がっていた。
トイレも浴室も申し分のない広さで、麗子は満足していた。
そんな中、海翔は二階が気になるようで階段をずっと見上げていた。
「ママ、二階へ行ってもいい?」と麗子に尋ねたが、危ないからと言われ許されなかった。
それでも海翔は二階が気になって仕方がなかった。
何故なら二階から自分を呼ぶ[声]が聞こえていたから。
二人は居間に向かった。
居間に残された家具は、以前暮らしていた家族の生活そのものだった。
壁際には骨董品の数々が飾られていた。
テーブルの上を指でなぞると、埃はほんのわずかつく程度だった。
だが、気になったのは居間の片隅に粗末に置かれた神棚。
三社の木が真っ黒に変色し壊れていた。
何やら不吉な予感を感じながらも、麗子は神棚に触れようとした。
その時、背後に黒い大きな影が通り過ぎた。
気配を感じて振り返ったが、そこにいたのは興奮して走り回っている海翔の姿だった。
元気すぎる海翔に呆れながら、麗子は居間の先にある障子を開けた。
そこは縁側になっていて、ガラス戸の向こうに庭が見えた。
海翔は「探検、探検」と上機嫌で縁側を走っていった。
「いたずらしないでよ」
と注意した時にはすでに海翔の姿はなく、別の部屋から駆け回る足音と返事だけが聞こえてきた。
居間に戻った麗子は、壁に掛けられた鏡に気づいた。
廊下と同じくアンティーク調のおしゃれな鏡で、廊下の鏡とは違い無傷だった。
鏡の前に立つと、麗子の姿がはっきりと映った。
ただその鏡で自身を見ていると、何故だか不安な気持ちになる麗子だった。
電気はまだ通っていないのか、テレビの電源はつかなかった。
残された家具や飾られた陶器を見ながら、麗子は以前暮らしていた家族の事を思い浮かべていた。
その時、突然スマホの着信音が鳴り響いた。
麗子がバッグからスマホを取り出すと、それは会社からの電話だった。
それは「会議が前倒しになった」という報告で、会議資料を急いで作らなくてはならなくなった。
電話を切った後、麗子は家に帰るべく海翔を探した。
「海翔、帰るよ!」
そう声を掛けても返事はなく、聞こえていた足音もいつの間にか消えていた。
疲れて寝てしまったのだろうと思った麗子は一階の部屋を探し回ったが、海翔の姿はどこにもなかった。
思い当たる場所は一つ。
海翔が行きたがっていた二階。
注意はしたが、好奇心と冒険心に勝るものは無い。
麗子は廊下に戻り階段で二階に向かった。
階段を上りきった時、麗子はその光景を見て驚いた。
二階は一階に比べ、明らかに廃れていた。
天井には蜘蛛の巣が張られ、壁はところどころ黒ずんでいた。
床は埃が積もり、まるで新雪のように小さな足跡がある部屋のところまで続いていた。
その足跡は小さく、海翔のものだとすぐにわかった。
「海翔、いるの?」
麗子が声を掛けるが、返事はない。
仕方なく、埃まみれの廊下を足跡の先にある部屋に向かった。
その途中、壁には装飾された鏡がかけられていた。
この家の鏡の多さに、少し異様さを感じた麗子だった。
そして、小さな足跡が途切れた部屋の前にやってきた麗子は、目の前のドアをゆっくりと開けた。
すると、そこには天井を見上げながら座り込んでいる海翔がいた。
「いた。階段は危ないから二階へ上がっちゃダメって言ったでしょ」
麗子はため息をつきながら部屋に入った。
そこはかつて子供部屋のようだった。
子供用のベッドと勉強机や洋服ダンスが置かれ、床にはおもちゃが散乱していた。
床のいたるところには何故か赤いペンキのような跡があり、部屋の中はほんのり甘い香りが漂っていた。
「そろそろ帰るよ」
麗子がそう声を掛けても、海翔は天井を見上げたまま返事もしない。
「天井がどうかした?」
麗子が海翔の横に腰を下ろすと、海翔はようやく麗子を見ながら握っていた手を広げた。
手の平には見たことのない真っ赤な実があり、手が赤く染まっていた。
「手が真っ赤かじゃない。どうしたの、それ」
「落ちてきた」
「どこから?」
息子は天井を指差した。
見上げると、天井には真っ赤な実よりも少し大きな穴が開いていた。
「ネズミかしら……」
「僕と友達になりたいって」
「友達? 誰と」
その問いに、海翔は首を傾げた。
「わかんない。でも、お友達になったらいいものあげるって」
姿は見えず、声だけが聞こえたという。
不安に思いながら、麗子が天井の穴を見上げていると、暗い穴の向こうに赤く光る大きな目玉が現れた。
麗子は驚いて悲鳴をあげた。
すると、穴を覗き込んでいた赤く光る大きな目が消えた。
それは人でも動物の目でもないと直感した。
海翔は手に持っていた真っ赤な実を、自身の鼻に近づけてにおいを嗅いだ。
そして、甘い香りがするその真っ赤な実を、海翔は本能的に口に入れようとした。
それを見た麗子は、とっさに海翔の手を叩いた。
真っ赤な実は海翔の手から転げ落ち、勉強机の下へ転がっていった。
海翔は叩かれたショックと痛みで泣き出してしまい、麗子はそんな海翔を抱きしめて謝った。
その時、麗子の頭の上にコツリと何か落ちてきた。
また真っ赤な実が天井の穴から落ちてきた。
だが、その実は熟しを通りすぎもはや腐って肥大していた。
ブヨブヨになった実は、触れただけで指先に粘り気のある赤い汁がついた。
よく見ると部屋の隅には、その実の種らしきものがいくつも転がっていたのだった。
「帰ろう」
動揺を隠しきれない麗子は、海翔の手を掴んで部屋を出ようとした。
すると、今度はまるで大男が歩いているような大きな足音が天井から聞こえた。
天井に誰かいる。
麗子は海翔の手を掴んで部屋を出ると、屋根裏に上がる入口がないかを探した。
二階にあるもう一つ部屋は、珍しく何もない空っぽの部屋だった。
真っ赤な実も、実の種も落ちてはいなかった。
ただ、その部屋の押入れが半開きになっていて、中には真っ黒に塗られたアンティーク調の鏡が置かれていた。
屋根裏へ上がる為の入口は、結局見つけられなかった。
廊下を階段に向かって歩く麗子は、ふと壁に掛かった鏡に目がいった。
そこには自分の顔が映っている。
酷く顔色が悪く、疲れた顔をしている。
麗子は海翔の手を放して鏡に近づくと、自分の顔に手を当てた。
すると、鏡に向こうにいる麗子の口元が微笑み、甲高い声をあげながら笑いだした。
戸惑う麗子に対し、鏡の中の麗子の顔は老けて一瞬で老婆に変わり、目玉が溶けて歯がこぼれ落ちていった。
そのぽっかりと開いた黒い穴の目と口で笑いながら、鏡から肌が焼け爛れた腕が飛び出し麗子の首を掴んだ。
首を絞められた麗子は、だんだんと意識が遠退いて行く。
そんな視界の中で、そばにいたはずの海翔が廊下の奥で立ち、天井まで伸びた大きな黒い人影のようなものと向かい合っていた。
その影はあまりに大きく、二つの大きな角と黒い翼を持っていた。
それはまるで悪魔のように見えた。
「海翔、ダメ!!」
そう心の中で叫びながら、麗子は気を失ってしまった。
それはほんのわずかな時間。
ポケットに入れたスマホの着信音で麗子は目を覚ました。
それははるかからの他愛無いメールだった。
麗子は今起きたことを思い出し、海翔を探した。
すると、海翔は階段の一番上で大人しく座っていた。
「海翔、平気?」
声を掛けると、海翔は振り返りニッコリ笑って頷いた。
鏡は恐ろしくて見る事が出来ず、避けるように一階へ下りると、その家を後にした。
麗子は悩んだ末に、その家に引っ越すことを諦めた。
家族の安全のために。
叔父にそのことを伝えても、見間違えだと笑うだけだった。
屋根裏にいるのは、せいぜいネズミかコウモリか小型の動物だろうと。
しかし、それを聞いていた叔母が麗子にあることを伝えたのだった。
昔、あの家の屋根裏で一家が自殺した。
家には見たこともない海外の本が並び、屋根裏には祭壇や鏡が残され、床には円陣のようなものが書かれていたことから、悪魔を召還する儀式を行ったのではと噂された。
そんなことがあってから、あの家に引っ越して来る家族は一年もしないうちに出て行くか、失踪して行方不明になるか、はたまた不慮な事故や病気で亡くなってしまうという。
それでも貸し続けるのは、大家がそれらを信じていないからだった。
「あなたは信じる?」
叔母はそう言って、不敵に微笑んだ。
それからしばらくして、麗子と子供たちは小さなマンションに引っ越した。
麗子は転職して在宅勤務になり、はるなの高校はこれまでよりも近くなった。
海翔が通う小学校の手続きも終わり、家族は平和に暮らしていた。
ただ、海翔は時々どこかに行ってしまう。
それほど離れていない場所で、海翔はいつも誰かと話している。
だが、海翔の周囲には誰もいない。
麗子が叱る度、海翔は言うのだった。
「トモダチに呼ばれた」と。
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