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夏の終わり

僕はその日、Tシャツと短パン姿で家の縁側で扇風機の弱風に当たりながら空を見ていた。
昨日まで空はカンカン照りの快晴で、冷房なくしては厳しい暑さだった。
でも今日は違う。
空は曇っていて太陽は隠れている。
風はほんのり冷たくて、遠くでツクツクボウシが鳴いていた。
夏休みももう終わる。
今年もたくさん遊んだ。
おかげで宿題は終わらなかったが、怒られる覚悟はもう出来ている。

夏休みの終わり、僕は昼過ぎまで寝ていた。
目が覚めてリビングに行くと、テーブルの上には母ちゃんの書き置きがあった。
父ちゃんも母ちゃんも出掛けたみたいで夜まで帰ってこないようだ。
冷蔵庫にはメモ書きと皿に乗った素麺が入っていた。
それが僕のお昼ご飯。
リビングで一人、僕は少し乾いた素麺を啜った。
そう言えば、兄ちゃんの姿も見えない。
部活かな。
兄ちゃんは野球部に入っていて、この夏はほとんど家にいなかった。

お昼を食べた後、僕は部屋には戻らず扇風機を回して縁側に寝転がった。
今日は曇り空。
賑やかだった蝉の声も減り、夏休みに育てた朝顔もすっかり枯れていた。
腹が満たされた僕は、いつの間にか眠ってしまった。

ドンドンドン!!

物音で目が覚めた。
周りを見ると、いつの間にか家の中が薄暗くなっていた。

ドンドンドン!!
 

音は玄関の方から聞こえ、僕は誰か来たのだと思い玄関に向かった。
すると、ガラス戸の向こうに黒い人影が立っているのが見えた。

ドンドンドン!!

インターホンがついているに、どうしてわざわざドアを叩くのだろう。

そんなことを思いながら、僕は外に向かって叫んだ。

「誰ですか?」

「その声はコウジか。じいちゃんだよ。悪いけど、中に入れてもらえないだろうか」

その声は、隣町のアパートで一人暮らしをしている僕のじーちゃん。

若い頃に両目を事故で失明したじーちゃんは、いつも杖をついて歩いている。

じーちゃんは見た目が少し怖いけど、陽気で酒を飲むとさらに豪快に笑う人だった。

それに、家に遊びに来るたびにお小遣いをくれたり、美味しいものをご馳走してくれたりもした。

僕も兄ちゃんも、じーちゃんが好きだった。

玄関を開けると、じーちゃんが汗だくで立っていた。

「いやぁ、暑いね。ちょっと中で休ませてもらえないか」

「いいよ。あがってよ」
 
すると、じーちゃんはニッコリと笑って中に入ってくると、白杖を立てかけて廊下に腰を下ろした。

「悪いけど、水を一杯貰えないか。喉がカラカラでな」

「それなら冷房入れるから、リビングでゆっくり涼んでいきなよ」

「いやいや、そこまでしなくていい。少し休んだら家に帰るからね。それより早く水が欲しい」

「わかったよ。今、持ってくる」

僕は急いでキッチンに行き、グラスにたっぷり水を注いで玄関に戻った。
廊下に座っているじーちゃんは、暑い暑いと言いながら手で仰いでいた。

「はい、持ってきたよ」

僕は水が入ったグラスを、じーちゃんの手に持たせてあげた。
グラスの表面についた水滴に触れた瞬間、じーちゃんの手が震えた。

じーちゃんはそれを抑えるように両手でグラスを持ちながら、グラスの中の水を一気に飲み干した。
ゴクッゴクッと喉を鳴らしながら飲む姿に、ただの水だと言うのにすごく美味そうに見えた。

一気に飲み干したあと、じーちゃんは空のグラスを僕に突き出して「おかわり」と言った。

「麦茶もあるよ?」

じーちゃんは首を横に振り、水がいいと言った。

僕は空のグラスを持ってキッチンまで走り、グラスにまたなみなみと水を入れた。

そして、床に少し零しながらもじーちゃんにグラスを手渡した。
すると、またグラスの水を一気に飲み干して、少しむせながらもまたおかわりと言った。

「えー、また? もうキッチンにおいでよ」

じーちゃんは、迷惑をかけるからと首を横に振った。
 

「頼む、もう一杯だけでいい」

僕は仕方なくまた空のグラスを持って歩いてキッチンに向かい、また水を入れると歩いて玄関に戻った。

そして、じーちゃんにグラスを手渡すと、またゴクゴクと一気に飲み干した。

ようやく落ち着いたのか、今度は空のグラスを床に置いた。

「ありがとう。ありがとう」

そう言ってじーちゃんは満足気に笑い、そのまま僕を抱きしめた。
それはいつもの挨拶だった。
母ちゃんや兄ちゃんは嫌がっていたけど、僕は嫌ではなかった。
何故なら、じーちゃんはいつもせっけんのいい香りがしていたから。

だけど、その時のじーちゃんからは嗅いだことの無いにおいがした。
一瞬だったけど、すごく嫌なにおいだった。
 
じーちゃんが僕の体を離すと、「ありがとう、さようなら」と言って立ち上がった。
それもいつものご挨拶。
ニッコリ微笑んで、じーちゃんは白杖をつきながら帰って行った。
 

日が暮れると兄ちゃんが帰って来て、夜になって父ちゃんと母ちゃんが帰ってきた。
じーちゃんが来たことを伝えると、父ちゃんは首を傾げた。

「来る時はいつも電話をかけてくるというのに珍しいな。電話はあったのか?」

「ううん。突然来たよ。暑い暑いって水を何杯もおかわりして帰ったよ」

父ちゃんは気になったのか、ーちゃんの家に電話を掛けた。
でも、まだ寝るような時間帯ではないのに、何度掛けても繋がらないようだった。

「ちょっと様子を見てくるよ」

そう言って、父ちゃんはじーちゃんのアパートに向かった。

僕と母ちゃんと兄ちゃんは家に残り、父ちゃんの帰りを待った。
しばらくして、今度は母ちゃんの携帯電話が鳴った。
それは父ちゃんからで、スピーカーから父ちゃんの慌てた声が聞こえてきた。

じーちゃんが部屋で亡くなっていた。

父ちゃんの話では、じーちゃんの部屋に着くと電気はついているのにインターホンを何度鳴らしても出て来る気配がなかった。

そこでドアポストを開けて中を覗こうとすると、中からムワッとした生暖かな空気と悪臭が漂ってきた。
そして、飛び回る虫の姿と倒れているじーちゃんの足が見えて、父ちゃんは慌てて警察を呼んだ。
部屋の中はめまいが起こりそうなほど蒸し暑く、エアコンは止まっていたそうだ。
どうしてエアコンをつけなかったのか。
後で知ったことだが、リモコンが何故か洗面台の脇に落ちていたらしい。

僕は思い出していた。
暑い、暑いって言いながら、水をたらふく飲んでいたじーちゃんのことを。

もっと早くうちに来てくれれば良かったのに。

僕は泣きじゃくり、
そして、
僕の夏が終わった。

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