雛人形

私の実家には、ガラスケースに入った雛人形があった。
それは私が生まれた時に、祖父母から贈られたものである。

ガラスケースの中は二段飾りになっていて、下段には三人官女の三体が上段には御内裏様とお雛様の人形がそれぞれすました顔で並んでいた。
ケースの奥には金色の屏風と、両脇には桃色の雪洞が飾られていた。
外側にはゼンマイがついていて、回すとひなまつりのオルゴールが流れた。

ケースはかなり大きくて、常に部屋のどこかに飾られていた。
家族は立派なお雛様だと褒めていたが、私は正直その人形たちのことがあまり好きではなかった。
何故なら、怪奇現象が起きるから。

私が小学生の頃、一人で留守番していると決まって地震でもないのにガラスケースの中の雪洞が勝手に倒れたり、ケースを叩くような音が聞こえたりした。
ある時はゼンマイを回さなければ鳴らないはずのオルゴールが独りでに鳴り出したり、またある時は誰も触れていないのに前扉が開いていたりした。

ある時、両親が仕事で家におらず、そのあいだ面倒を見てくれる祖母も買い物に出掛けていて、私は無音の部屋で勉強をしていた。
しばらくして、リビングの方から女性の話し声が聞こえて来た。
それは母とも祖母とも違う、聞いたことの無い声だった。
私はテレビでもついたのかと思いリビングを覗いたが、テレビは消えたままで部屋には誰もいなかった。

それでも誰かの話し声は聞こえてくる。
私はその声の主を探した。
耳を澄ませながら、リビングの中を歩き回った。
だんだんと大きくなる声。
視線の先には雛人形が並んでいた。
私がガラスケースの前に立つと、それまで聞こえていた話し声がぴたりと止んだ。
不思議に思いながら雛人形を眺めていると、耳元で複数の笑い声が聞こえた。
とっさに振り返ったが誰もおらず、目の前にはただの雛人形が座っているだけだった。
しかし、三人官女の口元をよく見ると、心なしかいつもよりも口角が上がっているように見えた。

また別の日。
私が夜中にトイレで目が覚めた。
用を足して部屋に戻ろうとした時、暗い部屋の中で強い視線を感じて振り向くと、そこには雛人形のガラスケースがあった。
私はガラスケースに近づき中を覗き込んだ。
三人官女もお内裏様も、ただ前を向いたまま座っていた。
だが、お雛様に目を向けた時、前を見ていたお雛様の顔が突然私の方を向き目が合った。
私は恐怖で慄き、急いで部屋に戻ると布団の中に潜りこんだ。
目を閉じると、お雛様の顔が過って眠れなかった。

翌朝、ガラスケースを覗くと、お雛様の顔は他の人形と同じ方向を向いていた。

それらの話をしても、家族はなかなか信じてはくれなかった。
『気のせいよ』『怖がりだな』と笑われるだけだった。

しかし、そんなことを言っていた両親も、ある事があってから気味悪がるようになった。
それは、ある朝ガラスケースの中を覗くとお雛様の整えられていた髪がひどく乱れ、顔の一部が黒く変色していたのだった。
他の人形たちは何の変化もないというのに。

不思議に思った父がお雛様をケースからだしてみると、束ねた髪の数本だけがやたらと長く不揃いになっていた。
まるでその数本だけが伸びたかのように。
そしてケースの中にしまおうとした時、お雛様の頭が床に落ちた。
その音はまるで人形の頭とは思えないほど重く生々しいものだった。
その時の青ざめた父の顔は今でも忘れられない。
父はお雛様の頭と体を接着剤で繋げ合わせると、何度も謝りながらケースの中にはしまっていた。

だが、その日から我が家に不幸が立て続けに起こった。

父は同僚が起こした不祥事の濡れ衣を着せられ減給となった。
母は親友を事故で失い、仲が良かった両親は喧嘩をするようになった。
次第に母は情緒不安定になり、夜中に暗いリビングで一人お雛様に話しかけながら笑っていた。そのたびに、リビングからお雛様のオルゴールが聞こえていた。

優しかった祖母は暴言を吐くようになり、祖父は横断歩道で轢き逃げにあい大怪我を負った。
私は毎晩、巨大なお雛様に追いかけられる悪夢を見るようになり、ガラスケースからは三人官女の笑い声が聞こえていた。

父はようやく理解したようだった。
そして、それは新しく購入したものではなく、祖父が知り合いから譲り受けたものだとわかった。

それを知った翌日、我が家から雛人形がなくなった。
どうしたのかと父に尋ねてみると、

「世話になった人のところに女の子が生まれてね、譲ったよ」

そう言って父は微笑んだ。
母も祖父母も『良かった、良かった』と言って微笑んでいた。
その笑顔が少し怖かった。

ただ、その雛人形が家からなくなってから、父は身の潔白が証明されて減給は取り消され、
母には活気と笑顔が戻り、祖母から暴言がなくなり、祖父の怪我はすっかり治った。
私も悪夢を見なくなった。
我が家に平穏な暮らしに戻ったのだった。

雛人形が今どこにあるのか私にはわからないが、これでよかったと私も思っている。