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【怖い商店街の話】 不動産屋

昔、実家近くにある商店街の中に不動産屋があった。
周辺地域を管理している小さな会社で、従業員は社長である中年の男性一人だった。
外に貼り出されていた物件は、どれも他の不動産屋に比べて間取りや立地条件も同程度だというのに格安だった。
だからなのか、貼りだされた物件の入れ替わりは早かった。

友人のNに、就職を機に一人暮らしをするための部屋を一緒に探してほしいと言われ、俺は物件探しに付き合った。
何軒か不動産屋を梯子して物件を探したが、就職したてで金もなく、条件を満たす物件はどれも想定以上に家賃が高く決めかねていた。

その時、ふと思い出したのが商店街の不動産屋だった。
すでに俺もNも歩き回ってクタクタだったが、そのまま商店街に向かった。
その不動産屋、いつもは誰かすら物件探しで客がいるというのに、その日は運が良いことに客はおらず、従業員の姿すらなかった。
滑りが悪い引き戸を開けて中に入ると、店内にチャイムが鳴り響いた。
すると、奥の部屋から従業員の男がニコニコと愛想よく出て来たのだった。

「いらっしゃい。どんな物件をお探しかな」

お互いに椅子に座ると、Nは他の不動産屋でも言っていた条件を目の前の男に伝えた。
築年数はそう古くなく、駅から近めで、トイレと風呂は別々の、家賃が安い物件。
しかも、その希望した家賃があまりにも低いため、ある不動産屋ではふざけるなと追い出されてしまったほどだ。
けれど、目の前の男はニコニコしながらNが希望する条件をメモ書きしていた。

「わかりました。探してみましょう」

そう言って、男は店の奥にある分厚いファイルをパラパラとめくると、物件情報の書かれた用紙を数枚持ってきた。

それはどの物件も築年数が二十年以内で、安くて、Nの希望通りのものだった。
喜ぶNを見て、男はニコニコと笑っている。

だが、俺が気になったのは、備考欄に「訳あり」と書かれていた事。
しかも、すべての物件に。

「この、訳ありって何ですか?」

俺がそう尋ねると、男はにこやかな顔で「大した訳ではないんですよ」
と言った。

Nは特にその訳を気にしておらず、その中から一つの物件を選んだ。

家賃はその中では高いが、商店街からすぐ近く、築年数は二十年だが五年前に改築された三階建てマンションだった。

「お目が高いですね。そのマンションは五年前に改築したばかりなんですよ。ここからすぐ近くですし、内覧されますか?」

「あー。お願いします」

Nがそう返事をした時、ちょうど男の手元にあった電話が鳴った。

「少々お待ちください」

そう言って男が電話に出ると、何やら立ち入った話のようで、男は一度受話器を机に置いた。

「すみません。鍵と地図をお渡しするので、先に行っててもらえます?」

「いいですよ」

「すみません」

男はニコニコ笑って、机に置いてあるメモ書きにザックリとした地図を書き、店の奥の棚から鍵を取ってNに渡した。

そして、男はまた受話器を取ると話し始めた。

俺たちは、それらを受け取り不動産屋を出た。

メモに書かれた地図を頼りに、マンションに向かった。

地図によると、マンションは不動産屋の脇道から三本路地を挟んだ先にある。

一本目の路地は、商店街に並ぶ店の裏側と平屋建てが並んでいて、玄関先で掃除している女性の姿があった。
自転車のサドルの上で、猫は毛づくろいをしていた。

二本目の路地は平屋建てと二階建ての家やアパートが並んでいて、そこには二匹の若い野良猫が遊んでいた。
その奥にも野良猫が一匹、俺たちの方を見て座っていた。

「なんか、この辺野良猫が多いな」

俺が呟くと、Nは「そうか?」と興味なさそうに言った。

三本目の道は広く、物件概要書の写真と同じ三階建てのマンションを見つけた。
改装してまだ五年しか経ってないこともあって、外壁も綺麗だった。
目の前には駐車場もあり、そこにはまた野良猫が四匹ほど寛いでいた。

部屋は一階の一番奥。
マンションのエントランスも廊下も洋風な作りでモダンだった。

「こんなにいいマンションが相場の半額だぜ。最高だな」
とNは喜んでいた。
一階は101号室から105号室まであり、表札に名前が書かれていたがとても静かだった。

俺たちは一番奥の105号室の前で止まり、不動産屋に預かった鍵で中に入った。
ドアを開けると、玄関から廊下が伸び、右側にはドアが二つ、左側に一つあった。
奥はダイニングキッチンで、その隣は六畳ほどの洋室になっていた。
部屋にはエアコンが完備され、脱衣所には洗濯機までもが備わっていた。
Nはすっかり気に入った様子だった。

「俺、ここに決めたわ」
そう言って、Nは床に座り込み不動産屋が来るのを待った。
確かに、俺もいい物件だと思った。

不動産屋が来るまで、俺は暇つぶしに部屋の中を見て回った。
トイレも風呂も、要望通り別々で壁も床もカビ一つなくピカピカだ。

トイレの向かいにあるドアを開けると、そこは四畳半ほどの小さな和室。
小さな窓はあるが、しばらく換気してないのか、なんとなく息苦しく湿気を感じた。
よく見ると、床に近い壁には引っ掻き傷のようなものがあった。
だが、目立つわけでもなく気にならない程度だった。

洋室に戻ると、
「いい物件だからって、譲らないぞ」
とNは俺を見ながらニヤリと笑った。

「いい物件だよな」

クローゼットを開けると中板があり、他には何もなくガランとしていた。
だが、壁をよく見てみると、そこにも引っ掻き傷のようなものがあった。

「何やってんだ?」

「壁に引っ掻き傷があるんだ」

「どれどれ?」

Nは立ち上がり、クローゼットを覗き込みながら壁の引っ掻き傷を指でなぞった。

「前の住人さんが猫でも飼っていたんでしょうね」

突然、俺の真横で声が聞こえ、驚いて肩がビクリと震えた。
そこには、ニコニコ顔の不動産屋の男が立っていた。
ドアの開く音も足音すらも聞こえなかったというのに。

「ペット禁止と書いているのに、守ってくれない人が多くて。補修と清掃が毎回大変なんですよね」
と、男は言った。

「俺はこの程度の傷なんて、別に気にしないぜ」

Nはこの部屋を借りると男に伝えた。

すると、不動産屋の男は感謝を口にしながら、何故かここへきてNに質問をしてきた。

この辺りは野良猫が多く、夜中になると猫の鳴き声がたびたび聞こえる。
人によっては我慢できないほど喧しいので、神経質な人にはこの部屋は向かない。

野良猫は追い払っても、いつの間にかまた増えてしまう。
だから、そのことを了承してもらえるかどうか。

ただ、野良猫がいるおかげでネズミの心配はないと言った。
そんなことはNにはどうでもいいようで、すぐに契約書を交わした。
俺はようやく決まり、一安心していた。

それから数日後、Nはその部屋に引っ越したのだが、業者に頼む金がないと言って俺と先輩のAさんが駆り出された。
トラックはNがどこからか借りて来たようだった。

一通りの荷物を部屋に運び入れると、Aさんは用事があるからと先に帰った。
その後は俺とNだけで、とりあえず必要なものだけを部屋に配置していった。
収納ケースに衣服を詰め込むと、Nからクローゼットに置いて欲しいと言われ、俺はクローゼットを開けた。

その時、一瞬だけ黒い影が暗い奥の方へ移動したのが見えた。
俺はビクリとして、クローゼットの奥を覗いた。
大きなネズミの影にも見えたが、奥には何もいなかった。

だが、代わりに一枚の紙切れが落ちていた。
内覧の時には、そんな紙切れなんてなかったはず。
俺は手を伸ばして紙切れを取ると、収納ケースを置いて戸を閉めた。
紙切れはしわくちゃで、殴り書きでこう書かれていた。

<奴の声を耳に入れるな>

<奴と目を合わせるな>

<奴に魅入られるな>

どういうことだか、俺にはさっぱりわからなかった。
Nにも紙切れを見せたが、興味がないようで書かれていた文字も読まずに丸めてゴミ袋に放り投げた。
その時は俺もただのゴミだと思い、気にすることはなかった。

無造作に置かれていた家具を整理し、とりあえずは生活出来そうな部屋になった。
まだまだ中身が入った段ボールが部屋に残されていたが、夕方から用事があった俺はゆっくりする暇もなく、時間が来て帰ることになった。
落ち着いたら泊まりに来ると約束をして、俺は部屋を出ようとした。

その時、ふとベランダの曇りガラスに、庭を横切る猫らしき黒い影が見えた。

黒い影は途中で止まり、こちらを向いたように見えた。

「猫だ」

「猫ぐらいいるだろ。不動産屋だって言ってたじゃん。この辺、野良猫が多いって」

「確かに」

曇りガラスに映る猫の影は、ふっと煙のように消えた。

それから一ヶ月ほど経った。

当時、携帯電話もなくて固定電話も引っ越したばかりで電話番号もわからず、就職してまだ間もないことや、引っ越しの片づけなんかもあるだろうと、俺からは連絡をしなかった。
だが、一ヶ月経っても連絡がなく、心配になった俺は仕事帰りにNの家に寄ってみることにした。

エントランスの郵便ポストには、すでにNの名前が書かれていた。
俺はNの部屋の前に着き、インターホンを鳴らした。

ピンポーン

部屋の中で音が聞こえたが反応はなかった。
もう一度インターホンを鳴らしたが反応はなく、ドアポストからNの名前を呼んでみた。

すると、廊下を歩く足音とともにドアが開いた。
半分ほど開いたドアから顔を見せたのは、少しやつれたようなNだった。
目の下に隈を作り、頬には赤く蚯蚓腫れのようなものが出来ていた。

Nは俺の顔を見て驚いていた。

「連絡寄越さないから、心配になって来てみたんだが生きているようでよかった」

そう言うと、Nは「中に入ってくれ」とドアを開けた。

中に入ると、玄関にはすでに傘や趣味の靴が何足も無造作に置かれていた。
廊下は以前とそう変わりなく見えた。
それにしても、俺の前を歩くNの背中は、以前にもまして猫背で姿勢の悪さが気になった。

部屋にあった段ボールはすでに片付けられ、Nらしい部屋になっていた。

「どうしたんだ。何かあったのか?」

俺がそう尋ねると、Nはソファに腰を下ろし、膝を抱えて窓の方を見つめた。

「煩くて眠れないんだ。毎晩、毎晩」

「煩いって何が?」

「野良猫だよ。毎晩、毎晩、ウーウー唸ったり、ギャーギャー叫んだり」

不動産屋が言った通り、この周辺には本当に野良猫が多いらしい。

「それは入居前に不動産屋も言ってたろ。それを承知で」

「声だけじゃない。カツカツと歩くたびに爪が当たる音も、走り回る音が耳障りだ」

「廊下って、お前の家?」

「そうだよ!!」

「猫でも拾ったのか?」

「拾うわけないだろ! あいつら天井は走り回るし、人が寝ている間に部屋中走り回る。今度見つけたら痛い目にあわせてやる」

窓を睨みつけているNの目は、殺意がこもっていた。

それにしても、部屋の中で猫の声や足音がするっていうのはどういうことなのか。
そう思った時、天井からトトトトという動物が走る足音が聞こえた。

「上の階の住人が動物を飼ってるんじゃないか?」

「俺もそう思って、上に階の奴に苦情を言いに行ったさ。けど、住んでないんだよ、誰も。空き部屋だったんだ」

「なら、ネズミでもいるのか?」

「さぁな。けど、この部屋にも何かいる」

俺は廊下を出てトイレや浴室を見に行ったが、そこには何もいない。
ネズミが入って来そうな穴もない。

四畳半のドアを開けると、そこには引っ越し用の段ボールが置かれていた。
段ボールの外側を叩いたが、何かいる様子もなく中身も空っぽのようだった。
だが壁に視線を移した時、以前よりも引っ掻き傷が深く、広がっていることに気づいた。

やっぱり、この部屋に何かいるのか?

俺はNのいる部屋に戻り、
「明日、不動産屋に聞いてみよう」
と伝えて、俺はひとまず家に帰ると言ったが、そんな俺をNが引き留めた。

「せっかく来たんだし、泊っていけよ」

俺はどうしようか迷ったが、あの寝たらただでは起きないNがこうも寝不足に陥るほどの野良猫の声や音を確かめたくて、泊ることを了承した。

とはいえ、来客用の布団なんてまだないだろうし、どちらかがソファで寝ることになる。
こんな一人用のベッドで、Nとくっついて寝たくはない。
その思いを感じ取ったのか、Nはベッドを指差しながら「お前はベッドで寝ていいから」と言った。
俺は少しホッとした。

Nがソファで眠り、俺がベッドで眠ることになった。

部屋の電気を消して、わずか数分の事だった。
遠くから、何かを探しているような野良猫の鳴き声が聞こえてきた。
発情期によく聞く鳴き声で、俺の家でも夜中に時々聞こえてくる。

だが、その声はいつまでも聞こえた。
部屋に近づいてきているのか、だんだん声が大きくなっていく。

すぐそばにいる。
そう感じて薄目を開けると、曇りガラスに長毛種のような猫の影が映った。
鳴いているのはその野良猫のようだ。

Nはソファから起き上がり、窓の方を睨むように見つめていた。
それでも、野良猫は何かを探すようにずっと鳴いている。

Nは舌打ちをしながら、わざと音を立てるように窓に近づくと、窓に映っていた猫の影が消えた。
きっと逃げたのだろう。
Nが窓を開けると、すでに野良猫の姿はなかった。

ソファに戻ってきたNは、再び横になった。

だが、また少しして野良猫の鳴き声が聞こえてきた。
窓の外で、今度は威嚇するように唸っている。
目を開けると、窓ガラスの向こうで二匹の野良猫が向かい合っている影が見えた。
二匹は激しく取っ組み合いをしながら、叫び声をあげていた。

俺はその様子に驚き、ベッドから起き上がった。
すると、Nがまたソファから立ち上がり、手元にあったティッシュボックスを窓に向かって投げつけた。
すると、野良猫は驚いたのか消えるようにいなくなった。

Nは俺の顔を見て、「毎晩なんだ」とうんざりした様子で言うと、またソファに横になった。
確かにこれが毎晩続くとなるときついなと、俺も正直思った。

異変が起こったのは、それからしばらく経ってからの事だった。
夢現の中で、天井を何かが駆け回る音が聞こえてきた。

また、この音か。

そう思いながら、ゆっくりと目を開けると薄暗い天井が目に映った。

トトトトト
ネズミのような、猫のような、そんな足音が聞こえる。
どこからか入り込んだ動物が、夜になって活動しているのだろう。
ソファに目を落とすと、Nがいびきをかいて眠っている。
俺はまたゆっくりと目を閉じた。

ガリガリガリ
今度は何かを削るような音が聞こえ、俺は目を開けた。
ガリガリガリ
音は廊下の方から聞こえた。

その音は止むことがなく、俺は音の正体を確かめに行った。
Nを起こさないようにゆっくりと。

廊下のドアを開けると暗くてよく見えなかった。
壁にあった照明スイッチを押した瞬間、スルリと何かの影が四畳半のドアの隙間から中に入って行くのが見えた。
クローゼットで見た影と似ていた。

廊下の壁には、引っ掻いた傷がそこらじゅうに残っていた。
俺は四畳半に逃げ込んだ影が気になりドアノブに手をかけた時、中から子猫のような鳴き声が聞こえてきた。

子猫がなんでこんなところに。

そう思いながら、ドアノブをゆっくり回し開けようとすると、今度は中から威嚇する猫の声が聞こえ手を止めた。

その時、俺はふと思い出したことがあった。
クローゼットで見つけたメモのことだ。

<奴の声を耳に入れるな>

まさかと思いながらも、勢いよくドアを開けた。
四畳半の部屋は、窓と廊下から漏れる灯りで薄暗い。
鳴き声は聞こえなくなり、何かがいるような気配は感じられなかったが、念のために電気をつけて探した。

やっぱり何もいない。

一体、この部屋は何なんだろうか。
物件概要に書かれていた「訳あり」とはこのことなのだろうか。

俺は部屋に戻ると、ベッドに横になって目を閉じた。

ようやく眠りに落ちかけた時、また猫の鳴き声が聞こえてきた。
それは、確実に俺たちが寝ているこの部屋から。

しかも微妙に声色が違う、複数の猫の鳴き声だ。
それは一匹や二匹ではない。

声が一旦止むと、次は耳の奥に響くような不快な咀嚼音が聞こえ、その音に混じるようにNの苦し気な唸り声がした。

俺は薄目を開けてNが眠るソファに目をやると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ソファで仰向けに寝ているNの体の上に、何匹もの柄の違う猫が乗っていたのだ。
それも、よく見ると猫たちは頭を下げて、何かを食べているようだった。

何を食べているんだ?

俺は目を凝らし、一匹の黒猫の様子を見ていた。
黒猫はNの腹部分に顔を近づけると、口を開けると何かを食いちぎった。
口元には千切った肉のような、内臓のような塊が垂れ下がっていた。
塊から滴る液体は、部屋の明かりが足らず黒く見えた。
黒猫は器用に塊を口の中に入れると、クチャクチャと音を立てて咀嚼した。
そして、美味そうに舌なめずりするのだった。

他の猫も同様だった。

一匹の白猫はNの顔に近づき鼻を寄せると、ペロリと舌で舐めあげた。
すると、Nの顔の皮膚がべろりと剥けて、白猫はそれを美味そうに食べた。

嘘だろ……。

Nが苦痛に顔を歪めながら唸っているのを横目に、猫たちはNの肉と内臓を美味そうに食べていた。
クチャクチャと咀嚼音が、次第に俺の胃を押し上げて苦いものが上って来た。
俺はNを助けようとしたが、何故か体が動かなかった。
声も出せずもがいていると、見ていた黒猫がこちらを向いた。
黒猫は、じっと俺を見つめている。

<奴と目を合わせるな>

メモ書きを思い出した俺は、とっさに目を閉じた。

すると、床に何か落ちる音がして、きっと黒猫がソファから降りたのだと思った。
カツカツとフローリングに爪が当たっている音が聞こえる。
目を閉じていても、黒猫が近づいてくる姿が安易に想像できた。
俺の心臓がドクドクと加速していく。

黒猫は俺が寝ているベッドに飛び乗って来た。
布団越しに俺の体の上を歩いているのが重さでわかる。

どんどん顔に近づいてくる。
ついには顔の前で黒猫の鼻息を感じ、僅かに湿った鼻が俺の鼻に触れた気がした。
だが、俺は目を開けなかった。

すると、黒猫はその場に座り込み、可愛らしい声で鳴いた。
まるで甘えているような、構ってほしいと言っているような。
俺の恐怖心は、その声ですっかり溶けかけ目を開けようとした。

だが、その時にまた思い出したのは、<奴に魅入られるな>という警告。

黒猫は何度も何度も俺に向かって甘えるように鳴いていたが、けっして目を開けなかった。
すると、諦めたのか黒猫は俺の体の上から飛び降りた。

俺は大きな声で叫びながら体を起こした。
金縛りは解けたようだ。
目を開けるとそこに猫の姿もなく、Nはソファで眠っていた。

ただ、Nの顔にできた蚯蚓腫れはひどくなっていて、服をめくれば腹には痣のようなものが広がっていた。

「おい、大丈夫か?」

俺が体を揺すり起こすと、Nはゆっくりと目を開けた。
体調はかなり悪そうだった。

「どうした?」

「どこか痛いところはないか?」

「痛みはないが」

Nは顔を歪めながら腹を擦っていた。

「何だか、この辺りが気持ち悪いな」

それは、あの猫たちが貪っていた場所だ。
Nは痒いと言い出し、腹をボリボリと掻き出した。

「お前、この部屋の中で猫を見たことあるか?」

俺がNに尋ねると、一度だけ見かけたそうだ。

ある深夜に、どこから入り込んだのか一匹の黒猫がこの部屋にいた。
Nは追い出そうとしたが、黒猫は甘えたように鳴きながらNにすり寄って来た。
その猫をNは可愛く思い撫でまわした後、猫はいつの間にか消えていたという。

Nはその黒猫に魅入られてしまったのだろうか。

翌日、俺たちは不動産屋に行き、従業員の男に「訳あり」の訳を尋ねたが、なかなか真相を話そうとはしなかった。

相変わらずニコニコと笑って、「大した訳じゃないんですよ」と繰り返すばかり。
イラついたNが脅すように詰め寄ると、男はやっと訳を話し始めた。

マンションが建ったばかりの頃、あの部屋に一人の男性が住んでいた。
ペット禁止というルールを破り、男は猫を多頭飼いし、虐待した挙句に死なせ、その亡骸を長い間放置させた。

その祟りなのか、飼い主の男は部屋の中で孤独死した。
残された猫たちは餌もなくなり、飼い主の血肉を食べて飢えを凌いだのだろう。
飼い主の男を発見した時、床には骨と血と体液が混ざった跡だけがこびりついていた。

他にも、壁や床にはおびただしい血と猫の死骸が横たわっていた。
共食いでもしたのだろう。
ただ一匹の衰弱死した黒猫を除いては、みんな内臓が食われた状況で横たわっていたのだという。

倒れていた猫たちは、寺の住職にお願いをして埋葬された。
供養できたと思っていたのだが、それ以来あのマンションの周りには野良猫が集まり、あの部屋には不可解なことが起こるのだという。

「うちの物件って、他の不動産屋さんよりも安いでしょ?」

徐に不動産屋の男は言った。

「ええ、安いと思います」

俺とNはそう答えた。

「そういうことです」

不動産屋の男は、そう言ってニタリと笑った。

その不動産屋が扱う物件は、すべて「曰く付の物件」とのことらしい。

それからすぐにNは実家に戻り、半年ほど経って別のアパートに引っ越した。
そこは家賃相応のアパートだが、怪異は起きないという。

Nの体に出来た蚯蚓腫れや痣も、いつの間にか消えてなくなったそうだ。

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