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襖のシミ

俺は便利屋をやっていた。
始めたばかりの頃は依頼もまるでなかったが、コツコツとポスティングや口コミで知ってもらい、今ではとりあえず生活出来るようにまではなった。
依頼はどんなことでもやる。
法律に触れない限りは。
多くはお使いや電球の交換、家具の組み立てやら模様替えの為の移動だ。
手先は器用な方で、よくお年寄りに頼られる。

 ある日の事、一本の電話が入った。
声の主は近所に暮らすサカイという高齢の男性だった。
聞こえてくる声は厳格で厳しそうな印象で、第一印象は俺の苦手そうな人だった。

「襖を貼り替えて欲しい」

 当時は襖の張替えはやったことがなくて知識もなかった。
だから一度はお断りをしたのだが、「どうしても来て欲しい。道具はこっちで用意するし、わからないなら張り替え方も教える」と言うので、「それならば」と俺は承諾したのだった。

 向かった先は、エレベーターもない古い市営住宅。
サカイさんはその三階に暮らしていた。
インターホンすらない玄関のドアをノックすると、ほどなくしてガシャン!という音と共にドアが少しだけ開いた。
サカイさんは用心深いようで、中からドアチェーンを掛けていた。

「ご依頼いただいた、便利屋です」

 ニッコリ笑って頭を下げると、「ああ、待っていたよ」とチェーンを外して開けてくれた。
サカイさんは怪我をしていて、右手首に包帯を巻いていたれた。

 「無理を言って来てもらってすまないね」

電話で聞いた声の印象よりも穏やかで腰の低い人だった。

サカイさんに促されるまま玄関を上がると、廊下の途中にある部屋に通された。
そこは窓のない少し薄暗い六畳の和室。天井には古い蛍光灯が吊るされ、部屋の隅には小さなテーブルと座布団があるだけだった。
その和室には押入れがあるのだが、二枚ある襖の内片方だけが不自然に黒く汚れている。

「この襖を張り替えて欲しい」

俺は驚いた。
何故なら、半年前に同じ襖を張り替えたばかりだったからだ。

その時のサカイさんは怪我をしたばかりで、顔にも痛々しい傷が残っていた。
それに包帯で巻かれた手首もまだ三角巾で肩から吊られていた。

和室に通された時、俺はその襖を見てギョッとした。
片方の襖は少し黄ばんでいる程度だというのに、もう片方の襖の上貼は黒カビのような黒いシミがびっしりとこびりついていた。
いつもは自分で張り替えているそうだが、手を怪我してしまってからは張り替えることが出来ず、それで俺に依頼したというわけだ。
俺にとって初めてだった襖の張替え。
サカイさんから手順を習い、どうにか張り替えることが出来た。
綺麗になった襖を見て、サカイさんは安堵していた。
俺もいい経験が出来てありがたかった。

それなのに、半年でこの汚れ方はどういうことだ。と俺は唖然とした。
以前来た時よりはそれほど酷くはなかったが、綺麗だった襖は中心から湧き出すように黒いシミが周囲に広がっていた。

何故こんなにも早くシミが生まれるのか理解できなかった。
和室には窓はないが、るが、湿気が多いという感じはまるでしない。
それに隣の襖は、半年前となんら変わりはないというのに。

気になった俺は作業に入る前に襖を外して少し調べることにした。
近くで見ると、黒いシミは少し湿っているように感じた。
襖の表面には黒いシミが染み出していたが、裏面はそれが一切なく綺麗だった。
押入れの床や壁も調べてみたが、カビが繁殖している様子はなかった。

作業時間もあり、俺は外した襖を畳に置いて上貼の張替えを始めようとした。
サカイさんのおかげで襖の張替え依頼も来るようになり、作業はお手の物になっていた。

「一人で大丈夫ですよ」

そう伝えると、入口で立っていたサカイさんは微笑み、

「頼んだよ。何かあったら呼んでくれ」と言って立ち去った。

畳に置かれた襖に向き合い、俺はシミだらけのふすま紙を一気に剥がした。その黒いシミも半年前に比べると、それほど抵抗はなかった。

そして、剥がし終えた襖に新しいふすま紙を合わせアイロンで丁寧に張り付けるところまで終わった。
後は余分な部分を切って完成というところで、隣の部屋からサカイさんがお茶と茶菓子を持って現れた。

「ご苦労さん。喉が渇くだろ。お茶でも飲んでおくれ」

「ありがとうございます。「それにしても、どうしてこの襖だけこんなに汚れるのでしょう」

すでに襖から剥がしたシミだらけのふすま紙を見て俺は尋ねた。

すると、サカイさんはそれをじっと見つめたまま胡座をかいて座り込むと、深刻そうな顔で話し始めた。

サカイさんとその奥さんがこの部屋に引っ越して来た時、その襖はそれほど汚れてはおらず、もう片方の襖と同じ状態だった。
だから、当時は気にもしていなかったそうだ。

だが、ある時から急に片方の襖だけに黒いシミが現れ、それがだんだんと色濃く広がっていくようになった。
とくに潔癖症でもなかった奥さんでもその黒いシミが気になるようになり、業者に張替えを頼むようになっていた。
だが張り替えても、張り替えても、すぐに黒いシミが現れてそれが広がっていく。仕方なく、サカイさんが知人から手順を習い、自分で張り替えるようになったという。

しかし、次第に奥さんは異常なほど襖の黒いシミに敏感になっていった。
まだ張替えには早いと感じる程度でも、「張り替えて欲しい」と言うようになった。
多忙でそれを断ると、これまで温和だった奥さんが暴れて暴言を吐くようになってしまった。
どうしても時間が取れずそのままにしていると、業を煮やした奥さんは自分で張り替えた。
しかし、不器用だった奥さんの手は怪我をして血塗れだったという。
常に襖を見つめ 、僅かなシミでもついてやしないかと奥さんは常に見張っていた。
その姿は異常だった。

「もうやめてくれ」

そう注意をすると、奥さんは生気のない目で答えたという。

 「私はもうじき死ぬわ」

 それを聞いた時、精神を病んでしまったとそう思ったそうだ。
サカイさんは、元々襖の黒いシミなど気にはしていなかった。
しかし奥さんが他界した後も習慣になっていたせいか、それとも奥さんへの供養か、襖に黒いシミが現れるたびに張り替えていたという。

「やっぱり綺麗な襖はいいね」

綺麗になった襖を押入れにはめると、それを見たサカイさんは安堵していた。


それから二週間が過ぎた頃、またサカイさんから電話が掛かってきた。

「襖を張り替えて欲しい」

「え? 張り替えたばかりですよね」

「い、いいから来てくれ!」

と一方的に電話を切られた。
サカイさんの声は少し震えていて、どこか様子がおかしかった。
俺はすぐにサカイさんの家に向かった。

ドアをノックした後、開いたドアの隙間から「無礼な態度をとって済まない」と言って頭を下げた。
その表情はどこか重々しく、顔色も悪かった。

 「早急にお願いしたい」

「お邪魔します」と玄関を上がり、例の和室に向かった。

すると、サカイさんは徐に和室の真ん中で正座をすると、襖の方をじっと見つめた。

「早く貼り替えてくれ」

そう言われたが、俺には襖にシミがあるようには見えなかった。

「あの、まだ綺麗な襖ですが……」

襖を見つめたまま、サカイさんは呟くように言った。

 「思い出すよ。妻が言っていたことを」

 「何と言っていたんですか?」 

「妻が亡くなる少し前、襖のそのシミが胸元で合掌をしている僧侶に見えると。その目がまるで哀れんでいるかのようだと。あの時は理解できなかったが、今は出来る」 

奥さんが体調を崩して寝たきりとなった時、サカイさんは仕事と奥さんの身の回りの世話で忙しく、襖のシミなどすっかり忘れていた。
奥さんはだんだんと口数が減り、笑顔も見せなくなったある時、変なことを口にするようになった。

「お経が聞こえてくる」

 どこから聞こえてくるのかと尋ねると、和室の方からだと言った。
それを聞いたサカイさんが和室に入ってみると、あの襖だけが真っ黒になっていたという。
そのことは奥さんには伝えずに、翌日には張り替えようとしていたが、その翌朝サカイさんが目を覚ますと、奥さんは冷たくなっていたという。

「どうかね、君にはこのシミがそんな風に見えるかね」

 そう聞かれたが、俺の目にはシミすらも見えなかった。

「私には、忌々しいこのシミが、人の形を成して手を合しているのが見える。逃れられない運命を感じる。愛する妻にも先立たれ、老いぼれてもなお生に執着してしまう。情けない男よ」

 「いえ、そんなことは」

「手間をかけて済まない。だが、張替えをお願いしたい」

 俺は了承し、そして襖は綺麗になった。

帰り際、俺はある事を尋ねた。

「お経は聞こえるのですか」

すると、サカイさんは
「それはまだ聞こえないのが救いだよ」と笑っていた。

 きっとただの偶然だ。
確かに気味の悪い襖のシミだが、気のせいに決まっている。
そう思っていたが、その後サカイさんから依頼が来ることは無かった。

 ある時、たまたま別のお客さんからの依頼で同じの市営住宅にやってきた。仕事は家具の組み立てですぐに終わった。
ふとサカイさんのことが気になり、俺は三階に向かった。

だが、サカイさんの部屋の名札はなくなり、ドアポストにはガムテープが貼られていた。
通りがかった同じ階の住人にサカイさんのことを尋ねてみると、半月ほど前に救急隊と警察の人がやって来て、中から大きな遺体袋が運び出されたという。

あの襖のせいなのか。
サカイさんにもそのお経が聞こえたのだろうか。
今はもうそれを知ることは出来ない。


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