喫茶店の客

取引先に納品を済ませた帰り、うだるような暑さに耐えかねた俺は通りがかった昔ながらの喫茶店に立ち寄った。
扉を開けると低音のベルの音が鳴り響き、カウンターにいた白い髭を蓄えたマスターがこちらを向いた。

「いらっしゃい。お好きな席どうぞ」

特に案内はされず店内を見回すと、入口付近にある四人席が三席ほど埋まっていた。
カウンター席は五つあり、二人が一つ置きに座りマスターと話をしている。
俺は空いていた窓際の四人席に座り、アイスコーヒーを頼んだ。
 窓の外は日差しが強く、歩く人はみな汗だくで日傘をさしている人もいるほどだった。
一方、喫茶店の中は冷房が効いていて涼しい。
マスターが持ってきたおしぼりは冷たくて、つい火照った顔を埋めてしまった。
 注文したアイスコーヒーはすぐに席に届いた。
ミルクとガムシロップを入れて軽く混ぜると、半分ほど一気に喉に流し込んだ。
よく冷えたアイスコーヒーはすごく美味かった。
俺は小さな幸せを感じながら、ホッと一息ついていた。
 
店内にはコーヒーをドリップする音や、入口付近の四人席に座っていた女子校生たちの笑い声や、その横の席に座る年配の女性二人組の楽しげな会話が聞こえきた。
カウンター席からは新聞を捲る音が聞こえ、老人がコーヒー片手に新聞を読んでいた。

……ポタポタ……

近くで水が滴る音がした。
隣の席を見ると、そこには赤いワンピースを着た女性がうつむき加減に座っていた。
店に入ってきた時は、まったく気づかなかった。
 
……ポタポタ……

水の滴る音は赤いワンピースの裾から床に滴っていた。
そして、女性をよく見ると全身がびしょ濡れのようだった。
まるで大雨の中を傘も指さずに歩いて来たかのように。
しかし、今日は朝からピーカン照り。
濡れた服などすぐに乾きそうな暑さだった。
それなのに、隣の女性は髪も服もびしょ濡れで、滴る水で床は水浸しになっていた。
女性の前には、水が入ったコップだけが置いている。

氷はとっくに溶けてしまっている。
その水すらも飲むことなく、ただ黙って俯いたまま座っているだけだった。
不思議なのは周りの反応だ。
こんなにもびしょ濡れの女性がいるにも関わらず、誰も関心を示さない。マスターすらも。

しばらく様子を見ていたが、隣の女性は他に注文をするわけでもなく、ずっと動かなかった。

俺は頼んだアイスコーヒーはすでに飲み干し、火照っていた体もすっかり冷えたのでそろそろ会社に戻ることにした。
注文伝票を持ち、レジに向かうとマスターもレジにやってきた。
俺はお金をトレイに置きながら、隣の席のずぶ濡れの女性のことを伝えた。
すると、マスターは一瞬手を止めただけで、
「あぁ。うん」
と頷くだけだった。
変な店だ。
そう思いながら、店を出ようとした時、「もぞこい女さ」というマスターの呟くような声が聞こえた。

どういう意味なのか、俺にはわからなかった。

店を出た後、何となく気になった俺は窓の外から店内を覗いた。
俺が座っていた窓際の席には、まだ空のグラスが置いてあった。
そして、その奥の席に目をやると、そこに座っていたずぶ濡れの女性がいなくなっていた。
ガラス越しに店内を探してみるもその姿はなく、水が入ったコップだけがテーブルの上に残されている。
そこへモップを持ったマスターがやってきて、手慣れた様子で水浸しの床を拭き、それが終わるとテーブルの上のコップをカウンターに運んでいった。

そして、マスターは誰もいないテーブルの上に、氷入りの水のコップを置いたのだった。

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