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トイレ小屋

実家のトイレが母屋の外にあった頃、子供だった私は夜一人でトイレに行くのが本当に怖かった。それは、あるものが見えるからだった。

夕食時になると、両親から『トイレに行きたくなるからジュースは控えめにしなさい』といつも言われているのに、私は言う事を聞かずに大好きなジュースを沢山飲んでしまう。すると、当然の如く夜中にトイレが行きたくなってしまう。
目を開ければ部屋は真っ暗。
怖がりだった私は、毎晩のように隣に寝ている母を起こしてトイレまで着いてきてもらうのだった。
薄暗い廊下を抜けて玄関の扉を開けると、目の前は夜の庭が広がる。
夏には虫の合唱が聞こえる。
庭の向こうは畑があり、明かりは遠くに見える電灯と月明かりだけだった。
目的のトイレまでは、玄関から続くコンクリートの道を少し歩き、木造の風呂場の隣にある。

木造のおんぼろなトイレ小屋。
電気をつけてドアを開けると、板で囲まれた狭い個室の真ん中に和式の便器、壁には半開きのガラス窓、天井には裸電球が垂れ下がっている。
便器を覗くと、そこにはぽっかりと大きな穴が空いている。
当時はまだ汲み取り式の所謂ボットン便所だった。
子供の私にはその穴がとても大きく見えて、中に落ちてしまいそうで怖かった。

それよりも怖かったのは、私が用を足していると上の方から気配を感じる時がある。
その時は決まって、窓の向こうから見知らぬ老人が覗き込んでいるのだった。
最初にそれを見た時、私はすごく驚いて心臓が止まりそうになった。
私は泣きながらトイレを出て、すぐに外で待っていた母に伝えた。
母も驚き、トイレの周辺を調べたが周りには誰もいなかった。

実家はかなりの田舎町。
隣の家まではかなり離れているし、周囲は畑と河川で囲まれている。
だから、知らない人が敷地内にいることはめったにない。

次の日にその話をしたら、父も祖父も覗く人の事を知っていた。
子供の頃によく見たそうだ。
祖父は、『川が近いから仕方がない』『悪さをすることはない』『そのうち見えなくなる』
と言った。

最初に見たその人は、おばあさんだった。
次に見たのは、おばあさんが二人とおじいさんが一人。
毎回別の人物で、一人の時もあるし、複数人の時もある。
共通しているのは、覗いているだけで別に何もしてこないことと。
そして、どの人も目に黒目がなく、真っ白で生気が感じられないことだった。

『悪さをすることはない』
そう言われても、私はやっぱり怖かった。
だから、母には外で待っていてもらい、ドアを開けたまま用を足した時もあった。
けれど、トイレの明かりに誘われた蛾がたくさん入ってきて、虫嫌いな私は耐えられずにトイレから逃げ出した。
だから、夏場はどんなに蒸し暑くても、トイレの中にいる時は窓を閉めて用を足した。
すると、覗かれることはないが、窓には顔の影がいくつも映ってそれはそれで気持ちが悪かった。


あれは、やはり夏の日だった。
その日は親戚の祝い事があり、実家にはたくさんの親戚が集まった。
テーブルには豪華な寿司や料理とお酒やジュースが並び、大人達は飲めや歌えや踊れで朝から大いに盛り上がり、私も年の近いいとこ達と遊び回った。
翌日もたくさん遊べると期待したが、夜になって親戚たちは帰っていった。
トイレのことを知っているのか、いとこたちも泊まりたがらなかった。

宴会も終わり、静かになる広間。
祖父も父も酔い潰れて、いびきをかいて寝ていた。
祖母と母は片付けに追われて忙しそうだった。
その隙に、私は余ったジュースを飲んでいた。
すると、真っ赤な顔をした父が起き上がり、
『また夜中にトイレ行きたくなるぞ』と私に向かって言った。
それに対し、私はいつものように『大丈夫! 寝る前にトイレ済ませるもん』と自信満々に返事をして、目の前のジュースを飲み干した。

しかし、深夜になってトイレが行きたくなってしまった。
私はいつものように隣で寝ている母を起こそうとした。
けれど、その日はかなり疲れていたようで、私が体を揺すっても起きてくれなかった。
日が昇るまではまだまだ時間があり、我慢はできそうになかった。

だから、私は勇気を出して一人でトイレに行くことにした。


玄関に置いてある懐中電灯を持って、私は一人庭に出た。
雲ひとつない夜空には、いつもよりも大きな月が浮かんでいた。
おかげで周囲は明るくて少しホッとした。

誰もいない庭。
母屋は台所に小さな明かりが見えるだけで、他の部屋は真っ暗だった。
お風呂場も同様に、暗くて静かだった。

トイレに着くと、私は電気をつけてドアを開けた。
中から冷たい風が引き抜けて、頬を掠った。
見れば、トイレの窓が全開になっていた。
私は入り口に懐中電灯を置いて、すぐに窓を閉めた。
背後で入口のドアがギーと音を立てながら閉まると、私はドアの鍵をかけずにしゃがみ込んだ。

すると、天井から”キー、キー”という音がして、見上げると隙間風のせいか天井の裸電球が音を立てながら揺れていた。
ふと、私の視界の隅で鮮やかな黄色い何かが映りこんだ。
視線を少し下げると、そこには黄色と黒のしま模様をした大きな女郎蜘蛛が天井の隅で巣を張っていた。
虫嫌いの私は、思わず息を飲み硬直した。

その時、外で大きな風が吹きつけたのか、トイレの壁と窓ガラスがガタガタと音を立てて揺れた。
窓の方を見ると、そこにはたくさんの顔が蠢きながらガラスにへばりついていた。
私は恐怖でパニックになりそうだった。
裸電球の明かりが弱々しくなり、足元から唸り声のようなものが聞こえてきた。
私は逃げようとして、トイレのドアノブに手をかけた。
しかし、どれだけ押しても引いてもドアが開かない。
鍵は掛かっていないはずなのに。

「お母さん!」
私は泣き叫んだ。
けれど、今日に限ってドアの向こうに母はいない。
声は母屋までは届かない。

だんだんとトイレの穴の中から聞こえる唸り声が大きくなる。
恐る恐る穴の中を覗いてみると、穴の底で手のような形をした黒い塊が蠢きながら上がってくるのが見えた。
私は恐怖で震えた。
それに加えて、天井にいた大きな女郎蜘蛛が巣からゆっくりと地面に下りてくる。
そして、私の方へ近づいてきた。

逃げたくてもドアは開かず、私は恐怖で泣きじゃくっていた。

私の方を見ながら近づいてくる女郎蜘蛛。
徐に方向を変えて、女郎蜘蛛はトイレの縁に長い足をかけた。
そして、そのまま飛び込むように穴の中に入っていった。
すると、穴の中から聞こえた呻き声は消えて、代わりにクチャクチャという咀嚼音が聞こえてきた。
同時に、窓の向こうから複数の笑い声がした。
穴の中で何が起こっているのか、私は怖くて覗くことが出来なかった。

そして、咀嚼音が聞こえなくなると、裸電球の明かりは元に戻りトイレのドアがゆっくり開いた。
私は急いでトイレから出ると、そのまま部屋に戻った。

翌日、トイレの電気は付けっぱなし、懐中電灯は入口に置きっぱなしで叱られた。
理由を伝えると、祖父が懐中電灯を照らしながら穴の中を調べたが女郎蜘蛛の姿はどこにもなく、天井の蜘蛛の巣には小さな蛾の死骸だけが残されていた。

その後、穴の中から呻き声が聞こえることも、蠢く黒い手を見えることもなく、天井の蜘蛛の巣もいつの間にか消えてなくなった。

ただ、相変わらず窓を覗く顔は気味悪かったが、それもいつしか見えなくなった。

父は、『大人になった証拠だ』と笑っていた。


今ではトイレ小屋は取り壊され、代わりに母屋から繋がる綺麗な洋式のトイレが出来た。
窓を覗く顔も、今では誰も見ないという。

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