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アンビュランス

男が暮らしていたアパートは普段とても静かであるが、周辺に介護施設や古い大きな団地が建ち並んでいるせいか、日頃からよく救急車や消防車が来ていた。
夜になるとその静けさを切り裂くようにサイレンを鳴らし前の通りに停車し、男の部屋の窓を赤色灯の赤い光で染めていた。

 引っ越してきた当初は、特別気にすることはなかった。
だが、友人の裏切りや私生活が上手くいかなくなってからは、その音がやけに苛立ちを募らせるものになってしまった。
挙句に会社をクビになり、恋人にも逃げられてしまった男は不満に充ちていた。

 嫌気を差しながら、暗い部屋で見てもいないテレビを照明替わりに付けながら、缶ビールとコンビニ弁当で腹を満たしていた。
そして、外から救急車のサイレンが聞こえて来るたびに、
「うるせぇな」と床に転がった空の缶ビールを壁に投げつけていた。
その一方で、男はSNSで見かけた他人の不幸をほくそ笑み、近所の掲示板に貼られた訃報に幸せを感じていたのだった。

そんなある日の夜だった。
いつものように暗い部屋でテレビを見ながら缶ビールを飲んでいた男の耳に、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
小さかった音はだんだんと大きくなり、そのうちベランダの窓ガラスに赤色灯のランプが映った。
「また来たか」と、男は立ち上がり窓の外を眺めた。

すると、救急車はまたアパートの前に停車し、中から数人の救急隊員が出てきた。
車内から担架を運び出すと、救急隊員はアパートの玄関側の方へ回り込んでいった。
男は缶ビールを持ったまま玄関の外に出た。
そして二階の廊下から一階を見下ろすと、救急隊員が101号室の部屋に入っていくのが見えた。

そこには男がよく知る高齢女性が住んでいた。
彼女は男よりもずっと長くこのアパートに住んでいる。
晴れた日には頼まれてもいないのに階段や廊下、それに前の通りを掃き掃除をする几帳面な人だった。
ゴミ出しの分別も徹底していて、守れていない住人には厳しかった。
男はもう何度も彼女から注意を受け、文句や小言を言われて腹を立てていた。
だがら、男は彼女の事が大嫌いだった。

男がしばらく様子を見ていると、101号室から救急隊員と担架に乗せられた彼女が出てきた。
下を通り過ぎる彼女はぐったりとしていて顔色も悪く、口には酸素マスクが付けられていた。

それを見た男はニヤリと笑い、
「いい気味だ。救急車なんて呼ばずにとっととくたばれよ」と呟いた。

すると、その声が聞こえたのか彼女の目がカッと見開き、二階にいる男と目が合った。

男は一瞬だけ驚いたがまたニヤリと笑い、
「そのまま逝っちまえよ」と呟いたのだった。
彼女はずっと担架の上から男を見ていた。

それから彼女を乗せた救急車は、サイレンを鳴らしながら病院に向かって走り出し、男の部屋に再び静寂が戻った。

 それから数時間が経った時だった。

 ピンポーン

男の部屋のインターホンが鳴った。
男はすっかり酔い潰れ、ベッドに寄りかかったまま寝ていた。

ピンポーン

またインターホンが鳴った。

男が夢現の中で目を開けると、いつの間にかテレビは消え部屋は暗かった。時計を見ると、すでに深夜二時を過ぎていた。

「こんな時間に誰だよ」

男は立ち上がることも面倒で無視をしていた。

だが、インターホンはその後も何度も鳴らされ、男は苛立ちを募らせた。

 ピンポーン

 「くそっ! こんな時間にインターホンを鳴らすクソ野郎は一体どいつだ」

 男は肩をいからせながら、床を力いっぱい踏みつけて玄関に向かった。
誰が来たかなど考えもしないで、鍵を開けると思いきりドアを開けた。 

すると、そこには三人の救急隊員らしき男たちが立っていた。
彼らはキャップを深く被り、マスクをしていて顔もよく見えないが、救急隊員の制服を着ていた。 

―お待たせしました。

救急隊員の一人がそう言った。

「何度もインターホン鳴らすな。睡眠の邪魔だ」

 ―もう心配ありませんよ。

 「呼んでない」

 ―すぐに搬送します。

「聞こえているのか。うちじゃねぇよ。よく確認してこい」

 男は勢いよくドアを閉めた。

すると、救急隊員は立ち去ったようで静かになった。
部屋に戻ると、赤色灯の赤い光が窓ガラスを照らしていた。

「こんな夜中に間違えるなんて。目が覚めちまうだろうが」

男はテーブルの上にある飲みかけの缶ビールを飲み干し、ベッドの上で眠りについた。

 

 翌日、男は職安(職業安定所)に出掛けた。
学歴も経歴もそれなりにあったのだが、求人情報に書かれた給与に納得出来ず、そのうえ男の威圧的な態度がマイナスとなり、紹介状も得られぬまま帰された。

不貞腐れながら、男はスーパーでつまみと缶ビールを買い込んだ。 
その帰り道、信号待ちをしている男の前をサイレンを鳴らしながら救急車が通り過ぎた。

 「そういえば、昨日来た救急隊員。家を間違えるなんて間抜けな奴らだったな」
昨夜のことを思い出し、男はにやついた。
その夜も、男は人の不幸をつまみに酒を飲み、酔い潰れて寝ていた。 

そして深夜の二時過ぎ。
男の部屋のインターホンが再び鳴った。
二度のインターホンが鳴った時、男はそれに気づいて目を覚ました。

すると、暗い部屋の中に赤い光が射し込んでいた。
男はよろめきながら窓の外を眺めると、そこには一台の救急車が止まっていた。
だが、サイレンの音は聞こえなかった。

ピンポーン

また部屋のインターホンが鳴った。
男が玄関のドアを開けると、昨夜と同じ格好をした救急隊員がまた三人立っていた。

―お待たせしました。

また同じセリフ。それに同じ声。
男は怪訝な顔で救急隊員を見た。

―もう心配ありませんよ。

 それも同じ。まるでデジャブ。

 男は苛つきながら、「呼んでない」と言った。

―すぐに搬送します。

男は我慢の限界を超え、烈火の如く怒りながら救急隊員の胸ぐらを掴んだ。

「呼んでねぇって言ってるだろ! 二度と来るんじゃねぇーよ! お前らなんて一生呼ばねえよ」と叫びドアを閉めた。

 ドアの向こうで遠ざかる救急隊員の足音が聞こえた。

 「何なんだ、あいつら。誰かの嫌がらせなのか?」

そう思いながら、男は部屋に戻った。

その時だった。

男の耳元でサイレンの音がけたたましく鳴り鳴り響き、赤色灯の赤い光が部屋中を巡り男の視界を覆った。
男は思わず両手で耳を塞ぎ、唸りながら床に膝をついた。
耳元で鳴り続けるサイレンはまるで壊れたラジカセのように歪み、男はそのまま床に倒れ気を失った。

 翌日も男は職安で仕事を探していたが、やはり給与や待遇に納得が出来ず悩んでいた。
ふと顔を上げた時、目の前の職員が愛想笑いを浮かべた。
男の目にはそれが馬鹿にされたように思え、職員に暴言を吐きながら出て行った。 

上手くいかない人生。

苛立つ男はまた大量に酒を買い込み、一人薄暗い部屋で飲み続けた。
珍しくサイレンの音が聞こえない静かな夜だった。
いつの間にか寝ていた男は、深夜になって尿意で目を覚ました。
すでに深夜二時を越えていたが、連日続いたインターホンは鳴らなかった。そして、トイレを済ませ男がベッドに戻ろうとした時、

ドックン!

いつもとは違う心臓の鼓動を感じ、それが痛みに変わっていった。
飲み過ぎたかと思う間もなく男の額からは脂汗が滲み出て、男は思わずテーブルに手をついた。
その時、テーブルの上にあった飲みかけの缶ビールを倒し、中に残っていたビールを零した。
ビールはテーブルを伝い、床に零れ落ちた。

男は胸を抑えながら携帯電話を探したが見当たらず、次第に痛みで呼吸は浅くなり、目の前がだんだんとぼやけていった。

ようやく男はベッドと壁の間に挟まった携帯電話を見つけ、ぼやける視界の中で震える指でなんとか119とタップした。
男は安堵し、そのままベッドに倒れ込んだ。 

男は信じていた。

あの三人の救急隊員が助けに来てくれることを。

だが、男のSOSは誰にも届かなかった。

何故なら通話ボタンをタップしておらず、繋がってはいなかった。

携帯電話の画面は、照明が消えて暗くなっていた。

 

三日後、一階では101号室の高齢女性が荷物を持った息子と一緒に帰ってきた。
そして、ちょうど102号室から出てきた女性と顔を合わせると、挨拶を交わして世間話を始めた。
息子である男性は、自分の母親をアパートに送り届けると帰って行った。

「よかったわ。心配していたのよ。もう平気なの?」

隣人の女性は救急車で運ばれた101号室の彼女を気遣った。 

「さっき退院してきたのよ。あの時すぐに救急車が駆けつけてくれなかったら、私は今頃あの世にいたかもしれないわね」

「すぐに駆けつけてくれるから安心よね」

「有難いわね。それに救急車の中で、救急隊員の方がずっと”大丈夫ですよ。”って不安な私に声を掛けてくれたのよ。なのに、上に住んでいるあの男」

「203号室の?」

「そう。運ばれる私を見ながら、薄ら笑いを浮かべていたのよ。絶対生きて帰ってきてやるって思ったわ」

「そういえば、ここ数日見かけないわね」

「清々するわ」

 そう言って、二人は203号室を見上げた。

 男の死が公になったのは、それからさらに二日経った後のことだった。

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