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見せ物として見ること、見られること【映画『NOPE』を観て】

初っ端から度肝を抜かれる映画を久しぶりに見た。

ホラー映画は正直あまり見る方ではなかったし、ジョーダン・ピール監督の作品も今回の『NOPE』が初めてで。

『トップガン マーヴェリック』を鑑賞した際に、予告を幾度か見て「面白そうやないの」と思い、軽い気持ちで見に行ったんですが、めちゃくちゃ怖かったし、生々しかったし、面白かった。
そして、映画館で見て大正解な映画でした。

以下、ネタバレを含む感想や考察を述べていきます。

冒頭のインパクト

冒頭、コメディ番組の楽しそうな音声だけがバックに流れる中、「誰か」の息遣いのようなものが合わさって聞こえてくる。

ここからもういや〜〜な感じがしていたが、その「誰か」が明らかになる映像を見た瞬間、前述した通り、度肝を抜かれた。

私は空に浮かぶ「何か」に関するホラー映画を見に来たつもりだったのだ。

「パーティー風の撮影現場に人が倒れており、その近くで血だらけのチンパンジーが息を切らして座り込んでいる」なんてシーンを見ることになるなんて一ミリも想像していなかった。

ただその「訳のわからなさ」がとても怖かったし、冒頭から予想を裏切ってくれる演出に胸が高鳴った。これはとんでもねえ映画だ…と観客に思わせてくれる、お手本のような冒頭だと思う。

「裏方の存在」であったとしても。

本作の主役は、ロス郊外で牧場を経営する一家の兄OJとその妹エメラルド(以下、エメと記述する)だ。

度肝を抜かれた冒頭シーンの後、スタッフクレジットの背景に、映画誕生のきっかけとなった連続写真が流れる。その連続写真に映る馬に騎乗していた、そんな偉業を成し遂げた人物の子孫が彼らなのだ…ということが、映画撮影の現場でのエメの説明によって明かされる。
そして、そんな彼らを見る周りの態度を見て思う。

なるほど、彼らは映画撮影における俳優や監督のような「表に立つ存在」ではなく、あくまで「裏方の存在」なのだ。

さらに言えば「黒人」である彼らが「裏方の存在」として、「白人達」=「表に立つ存在」を支えている…そんなようにも思えてしまった。

さらに「生物」を扱う彼らは、CGが発達したりするなかで、映画界では段々と「必要とされない存在」として扱われるようになっており、父の死をきっかけに牧場は更なる経営難に陥ることになる。

そんな矢先に、空に浮かぶ「何か」を目撃する。
普通、そんな訳のわからないものが家の近くにいるとなれば逃げるしかないと考えるだろうが、OJは逃げることを認めない。
むしろそれを撮影できないか、と考える。

「動画がバズれば金を得ることができるかもしれない」
「知名度アップに繋がるかもしれない」
そういった思いがきっかけではあっただろう。

しかしその根本には
「父から受け継いだ牧場を守らなければいけない」
「父の死の真相を確かめたい」
「必要とされなくなっている自分達が生きていた証をこの世界に刻んでやりたい」
そんな思いがあったのではないかと思う。

映画の後半、OJが馬に乗って、空に浮かぶ「何か」を背に走り出すシーン。

あの時、映画の中でカメラマンであるホルストが撮影していたフィルムには、OJはおそらく映されておらず、「何か」のみが映されている。

それでも、「何か」の裏にはOJがいたように。

「何か」のような「表に立つ存在」の裏には、「裏方の存在」があること。

「必要とされなくなっている自分達」も、祖先のように生きた証を、名前をこの世界に刻むことができるのだということ。

そんなことを表しているシーンのように思えた。

また、私個人の感覚として、ホラー映画の流れというのはある程度決まっていて
「ホラーの対象を認知→恐怖を感じる・被害を受ける→対象から逃げる・対象を壊すために奔走する」…
こういう流れだと思っていたのだが、この映画は対象から「逃げる」「壊す(最終的には壊すことになったが)」のではなく、「対象の危険度を認知した上で、バズり動画の対象として撮影する」ことを目的としたのも、発想が面白いよな〜と思った。

正直、「逃げる」「倒す」だけだと予想の範疇に納まるストーリーにしかならない気がしていたのだが、「撮影するために立ち向かう」ことを目的としたことで、「撮影の仕方」「助っ人の登場」「撮影後の離脱方法」等、そこからまた新しいストーリーが生まれ、映画のエンターテイメント性を引き上げているように感じた。

ジュープの存在、チンパンジーはなぜ暴走したのか?

経営難に陥る牧場を維持するために、OJは馬を何頭か牧場近くのテーマパークの経営者であるジュープに売り払う。

そして、映画が進むにつれ、冒頭のシーンが子役としてコメディ番組に出演していたジュープの目線による映像であったことが明らかになる。

しかし、なぜこのような、謎の「何か」の襲来とは全く関係ないとも思えるエピソードをわざわざ入れ込んだのか。

冒頭で引用されていた「ナホム書」が引っかかっていたため、鑑賞後調べてみたところ、映画で引用されていたのは以下の一節だった。

「私はあなたの上に汚物を投げつけ、あなたを軽蔑し、見せ物にする」
ナホム書3章6節より

鑑賞時、私はチンパンジーが暴走した理由について、風船の割れる音が嫌だったからだと解釈していた。当然、それも暴走の理由の一つではあるだろう。

しかし、このナホム書をわざわざ引用し、冒頭に示したことを考えると、暴走した本質的な理由は、「見せ物して見られることに対して怒りを覚えていたから」なのではないかと思う。

そして、ジュープがただ1人助かったのは、彼が机の下に隠れたことで「見せ物としてチンパンジーを見ずに済んだから」であり、チンパンジーはジュープと拳を合わせ合うことで、見せ物としてではなく、友人としての絆を確かめたいと願ったのではないか…そんなふうに思っている。

しかし、ジュープは結局テーマパークにおいて、未確認飛行物体や馬を見せ物として扱い、謎の「何か」を見たことで、「何か」に喰われてしまう。

ジュープの様子を見る限り、チンパンジー暴走事件のことを単に嫌な思い出として処理するのではなく、トラウマでありながらも、痛みと悲しみを伴う事件として回想しているように思えた。

しかし、結局彼自身も生きていく上で、テーマパークの支配人という、ある意味役者のような仕事をしていく上で、自分や周囲を見せ物として扱うことから、逃げられなかったのではないかと思う。

見ること、見られること。

チンパンジーが見せ物として見られたことに対し、怒りを感じ、人々を襲ったように。
未確認飛行物体も見せ物として見られることに対し、喰うことで人々を襲う。

では、なぜ主人公のOJはその事実に気づくことができたのか。

一つは、彼の世話する馬たちも、「見せ物として見られることに拒否感を感じていること」「見せ物として見られている自分を認識すると暴れてしまうこと」に気づいたから、だと思う。

そして、もう一つは、OJ自身も「人から見られること」に対して強い拒否感を感じていたからではないかと解釈している。

実際、物語前半で馬の安全講習を実施する際、OJは人前で話すことがかなり苦手そうであり、対する役者を目指すエメは見られることに慣れており「むしろ私を見て」とすら思っていそうである。
そんなエメが見られることが「何か」の「強襲」に繋がる事実に気づかないのも無理はない気がする。

また、映画上では明確に語られている訳ではないが
「黒人である」それだけで、OJ含め彼ら(黒人の方)は見せ物として見られた経験があるのではないか。

「黒人である」それだけで、人を見たときに「何見てんだ」と睨まれる経験が彼らにはあったのではないか。(だからOJは常に俯きがちだったのではないか)

「黒人である」それだけで、映画やドラマ等で彼らを見せ物のように扱ってきた実績が我々にはあるのではないか。(人種差別的な観点から黒人の方を主役に…のような話はその典型的な例な気がする)
そのようなことも考えさせられた。

ただ、この映画が伝えたかったことは、「見せ物として見られる・見ることが悪である」ということよりも、「我々に必要なことは、相手の本質的な部分をちゃんと見て、相手との関係性を築く」ということなのではないかと個人的には希望的な解釈をしている。

OJとエメが指差しでお互いをずっと見ている(想っている)ことを伝えあうことができたように。
チンパンジーとジュークがお互いに拳をぶつけ合うことで、友情を伝えあった瞬間があったように。
見せ物ではなく、実力やキャラクターの置かれた状況から出演する役者を採用するように。

そういった相手の見方・見られ方…関係の結び方も、自分たち人間にはできるのだということを、この映画を通して伝えようとしていたのではないかと思っている。

映画館で鑑賞することの意味

ここまで主にストーリーに関する感想や考察を述べてきたが、映画の演出に関して言えば、ここまで「音」に対する恐怖を感じさせる映画というのも、珍しいと思った。

「何の音かわからない」ということが、こんなに怖いのかということ。
(そして、その「音」の正体がわかるシーンの衝撃の与え方が実に上手い) 


また、映画館であるからこそ、音に対する恐怖をより強く感じることができた。
映画館というほぼ真っ暗な場所で、訳のわからない音に包囲される感覚というのは、なかなかに得難い経験であり、ある意味アトラクションのようにも感じた。

そして、撮影に関して言えば、個人的に印象に残っているのがOJの目の動きの映し方だ。

真夜中に車に乗りながら、空に浮かぶ「何か」を見ないように視線を彷徨わせるシーン。
黒人の方であるからこそ、夜の闇にその姿が境界がわからなくなるぐらいに溶け込んでいるのだが、瞳だけがとても美しく白い中で、黒い虹彩だけがぐるぐると動き回るのだ。
彼の感じている恐怖の大きさが観客にもより効果的に伝わっているシーンだと思うし、黒人の方が主人公であるからこその映し方だと思った。

まとめとして

鑑賞後、多くの人がそうしたと思うが、思わず空を見上げた。

映画の中の彼らと同じような恐怖感を味わえる…かと思ったが、正直あまり感じなかった。(少しショック…)

理由を考えた時、まず、現在自分が住んでいる場所が、建物にせよ住民にせよ多すぎるよなと思った。空に浮かぶ「何か」が喰うには物も人も多すぎるのだ。
これでは気管を詰まらせてしまう。東京やNY等の大都市でも同じだろう。

では実家周辺(超田舎)の空ならどうだろうと想像してみたが、やはりあまり恐怖を感じない。周囲を2000m級の山で囲まれているような盆地地帯のため、あまり空の広さを感じないのだ。

そう考えると、あの「何か」が襲来したのが、撮影現場としたのが、あれだけ空を広く感じられる場所だったというのも何となく納得できたし、空の広さから開放的な気持ちになれると同時に、「逃げようにも隠れる場所がない」という恐怖を感じることもあるのだということを知った。

いつか、あの広い空がある場所にも行ってみたいなんてことを、空を見上げながら思った。
(その時には彼らが感じたような恐怖を私も感じるのだろうか…)

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