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小説「神の子の親友」

セカイがうちに来たのは僕が八歳、母さんが亡くなってすぐの頃だった。塞ぎ込む僕を見兼ねて父が貰ってきたと聞いた。

セカイは雄のラブラドールで、母さんの作るホワイトシチューみたいな、優しい色をしていた。

自宅裏の宮殿のような建物で、父はキョウソとして働いていた。そこにはシンジャさんと呼ばれるたくさんの大人が居て、僕は神の子と呼ばれていた。身の回りのことは全てシンジャさんがやってくれ、みな僕に優しかった。

僕は学校という存在を知らずに育ち、勉強は家庭教師に教わった。授業を受けている間セカイは体をくるりと丸め僕の足元で眠り、僕が足先で体を撫でると気持ちよさそうにもっと、とお腹を出した。しまいには体を起こして鼻先で僕の手を探り当て、本格的に撫でられようとするものだから家庭教師はこら、と怒った。

一日に二度セカイを散歩させるのは僕の仕事で、セカイは舗装された道よりも草が生い茂る裏道や花壇の隙間を好んで歩いた。冷たく黒々と湿る鼻はよく利き、ポケットに忍ばせたおやつはすぐに探り当てられ、その太い尻尾を揺らした。

夏は敷地の中を流れる川で石の水切り、秋は落ち葉を探し、冬は薄氷の張る水たまりをぱきぱきと踏み、春は零れ桜をつかまえて、僕たちは遊んだ。



僕がボールを投げセカイが拾ってくる、という遊びをセカイはとても気に入っていた。僕はその日、体調が優れず数回投げたところでその遊びを切り上げた。当然セカイはボールを離さず、口に咥えた涎だらけのボールを僕は手を捻じ込んで引っぱり、セカイは不服そうに唸った。

ボールを離そうとしないセカイに、僕はげんこつを落とした。怒ったセカイは唸り、ボールを離した瞬間、僕の手に噛み付いた。

僕は驚きバランスを崩し、硬いアスファルトに倒れ込んだ。セカイの怒りは収まらず、倒れた僕の洋服を引っ張り回した。異変に気付いた近くのシンジャさんが慌ててセカイのリードを掴み、僕らは引き離された。


まさかそれが別れになるなんて、思ってもみなかった。


翌日熱を出した僕は、数日寝込んだ。
目を覚ました時セカイは居らず「おいで!」とベッドの上から声を張り上げても、その掠れた声は虚しく部屋にこだまするばかりだった。

父が見舞いに来た際、セカイが処分されたことを知った。

セカイは母を亡くした慰めに与えただけで、新しい母が来たので早晩お役御免にするつもりだった、良い機会だ、と父はぞんざいに言ってのけた。

父の言葉は絶対で、僕はいつものように「シュクフクを」と言い頭を下げた。

下げた頭は父が出て行ってからもしばらく上げられず、こぼれ落ちた幾つもの涙は、握りしめた拳から流れ出た血と混ざり、生成りのシーツを赤く汚した。



僕には不思議な力が備わっていて、心を鎮め体の真ん中に意識を集中させると、亡きヒトが出す羽衣みたいな一部に触れ、想いを交わすことが出来た。それが出来るのは父と僕だけだった。時が経つにつれ父はその役を、目に見えて減らしていった。代わりに生まれた莫大な時間を、何に費やしていたのかは想像に難くない。教祖である父を、誰も咎めることはできなかった。新しい母はとっくに家を出ていた。

父は詐欺罪で、呆気なく逮捕された。僕は未成年という理由で何の罪にも問われなかったし、その生い立ちを、世間はむしろ哀れんだ。残ったのは親代わりだった数名の信者と、父の残した莫大な借金だけだった。

教団が解散しても、僕の力は衰えることはなかった。どこから嗅ぎつけたのか分からない多くの人が僕に救いを求め、自宅やバイト先に押しかけて来て、僕は幾度も名前を変えた。

数回試したが、動物ではどうも勝手が違うのかセカイの羽衣に触れることは叶わなかった。

歳を重ねるにつれ、僕の力はどんどん弱くなった。それは加速度的に進行し、成人する頃ついに完全に失われた。そのことを伝えても、かつての信者は僕から離れていくことはなかった。

「もうとっくに家族じゃないか」
と、彼らは笑い、僕は泣いた。

ある日、家族の一人が、引退した盲導犬を引き取りたいと言い出した。隣町に動物病院があり、その敷地内に役目を終えた数匹の犬達が、穏やかに暮らしているらしかった。僕は気乗りしなかったが、まずは見るだけと足を運んだ。大きな部屋に年老いた犬達が、かつてのセカイのように丸くとぐろを巻いて、思い思いに眠っていた。

セカイみたいだね、隣にいた家族に言ったその刹那、寝ていた一匹のラブラドールが顔を上げた。

僕とその犬は、ひととき見つめ合う。

セカイだった。


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