人生の歩き方
どーーーでもいいことを書きたくなった時のために、ひっそりと始めていたこのnoteを徐に開いたのには訳がある。
昔から文章を書くことが好きで、作文の宿題は大好きだった。
小6くらいからルーズリーフに小説を書くようになり、家のパソコンを自由に使えるようになったあたりから、時を同じくして大流行中だったブログブームの波に乗ってブログ小説を書き始めた。
中学~高校あたりは日々の出来事を授業ノートの端っこに書き留めては、家のパソコンからブログに綴る毎日を過ごし、ミクシィ、アメブロ、Twitter、Facebook、Instagram、などなど流行りの媒体には片っ端から手を出してきた。
短文のSNSより長文が書けるブログ系のものがやっぱり好きだったけれど、社会人になってからはなかなか時間が取れず、長く続くものは少なかった。
そんな中、今年4月から新しい生活を始めたのを機に、久しぶりにアメブロを開いてブログを再開した。
が、最初の1~2記事を投稿してから早4ヶ月、更新は滞ったままである。
せっかく投稿するのだから文章は推敲して、写真も何枚か載せて・・・と、投稿のハードルを上げすぎたなと反省中。
だからリハビリを兼ねて、このnoteを開いてみたわけだ。
個人的には、質より量、だと思っている。
思考を見える化する訓練だ。
せっかくなので、4月最初の決意のブログ記事を、ここに引用しておこうかな。(若干修正あり)
めっっっちゃ長いけど。笑
もうすでに、はじまっていた
平日の午後3時。
こんな時間に自宅でウトウトしていられるのには、理由がある。
2021年4月1日。
私は晴れて、フリーランスになった。
紆余曲折を経て、『個人事業主』としての歩みを始めることにしたのである。
正確にはまだ開業届を出していないのだが、自分の気持ち的には、ここがスタートだ。
私の人生は平凡に続いていくはずだ
大学を卒業してから6年間、転職こそしたものの、途切れることなくフルタイムで正規雇用され続けてきた。
『仕事』というものに対しては、やりがいや誇りを感じることももちろん大切だが、あくまで稼ぐ手段、生きるための糧として捉えている節があった。
自分が本当にやりたいことは、ライフワークとしてプライベートな余暇時間におこなうものという感覚だった。
──良い高校に入って、良い大学を出て、大きな会社で安定した生活を手に入れなさい
という価値観の親に育てられたおかげで、それが『普通』だと思って疑うことのないまま幼少期を過ごした。
母の口ぶりはむしろ
「良い人と結婚して主婦になって子育てに専念しなさい」
が含蓄されていたようにも思え、幼い私が想像した人生のゴールは『お花屋さん』とか『歌手』とかそういった職業的なものではなく、『お母さん』や『おばあちゃん』としての姿だった。
だから、なのか分からないけれど、仕事に生きる!みたいなことは想像できなかったし、自分の夢を仕事にするとか、自分がやりたいことをしてお金をもらうみたいな発想は全くなかった。
そんなこと、できるはずない。
いや、していいはずがない。
みたいな。
しょせん私は、平凡な人間である。
『普通』とか『王道』の真ん中を歩いていくような人生だと、信じて疑わなかった。
小学校、中学校と無遅刻無欠席を貫いて、大きな事故や事件もなく、成績もわりと上位だった。
それがコンプレックスでもあったのだが。
忘れもしない高校3年生の冬、あと1週間で小学1年から12年間の無遅刻無欠席を達成する!という最後の最後に、まさかの大寝坊をして、登校時刻2時間遅れで泣きながら教室のドアを開けたような人間である。
人生が終わったと思った大寝坊
当時、朝5時にひとり起きて、大好きだった天気予報士の依田司さんが異例のメインキャスターを務めていた『やじうまテレビ』というニュース番組を見ながら朝ご飯を食べ、1分間の体操を一緒にしてから自室に戻って受験勉強をするという登校前の朝学習をしていた。
その日、朝学習中にうっかり寝てしまった私は、家族の誰にも起こされることなく、ハッと目を覚ました時にはすでに、1時限目が終わっている時刻だった。
ああ、人生終わった……。
いっそこのまま、学校をサボってどこかに行ってしまおうか、と一瞬迷った。
けれど、そんな妄想は一瞬で頭を通り過ぎ、必死に漕いだ自転車で私が辿り着いたのは2時限目真っ最中の教室だった。
私が泣きじゃくりながらドアを開けたとき、先生は授業を中断して別室に付き添ってくれ、たかが寝坊にも関わらず「つらかったな」と優しく共感して励ましてくれたのだった。
痴漢にでも遭ったのかと思って別室に連れて行ったのだと後から知ったが、あの時の高校の先生には感謝しかない。
あのケアがなかったら、その後私は実家に引きこもっていたかもしれないと本気で思う。
そんな私が、まさか「起業」「開業」なんて言葉を自分で語るようになるなんて。
本当に人生、何があるか分からないもんだ。
外の世界を知って「平凡」がゆらぐ
私が生まれ育った茨城県つくば市は「研究学園都市」と呼ばれるちょっと特殊な町で、研究所や大学の敷地に囲まれて暮らしていた。
まわりの友達はみな、研究者や大学教授の息子・娘ばかりで、私も例に漏れず、父は研究所勤務だった。
物心ついた時から、春になると母に連れられて近くの研究所の敷地内でお花見。
父の研究所にあるテニスコートで家族テニスを楽しむ休日もあった。
幼稚園の遠足はJAXA(当時は確かNASDAだった気がする)の宇宙センターに行ったし、小学生の夏休みは、様々な実験などに参加させてもらえる『ちびっ子博士パスポート』を握りしめ、連日バスに乗って研究所をハシゴしてはスタンプを集めた。
研究所のためにつくられたような町で、住宅は公務員宿舎と団地と新しい分譲地に建てられた一軒家くらい。
そんな生活圏だったから、昔ながらの『商店街』なんてちびまる子ちゃんやサザエさんの世界の話だと思っていた。
研究者の皆さんはラフな格好で働くことが多く、自転車で通勤する人も多かったように思う。
だから、千葉の大学に進学し、つくばと東京が電車で結ばれた悲願の『つくばエクスプレス』で電車通学するようになって、スーツを着て電車で通勤するような『会社員』が本当に存在するのだと知って驚かされた。
大学2年からは、東京にある母の実家に下宿させてもらうようになり、憧れの東京暮らし。
バイト先に選んだ恵比寿のおにぎり屋さんで、生まれて初めて『フリーター』の人と遭遇した。
土地柄なのか、コンクールを受けている駆け出しのダンサーさんや、絵描きの卵をしている人など、芸術系の夢を持ちながらアルバイトで生計を立てている人が多かった。
それまでは正直、『フリーター』というと正社員になれない人とか、あまり働きたくないちゃらんぽらんな人、みたいなネガティブなイメージを勝手に持っていた私。(失礼)
けれど、そこで出会った『フリーター』はあくまで一時的な肩書きで、実際の一人ひとりは真剣に夢を追いかけているポジティブな人たちだったのだ。
──こんな生き方もあるんだ……!
と、ひどく感動したのを覚えている。
余談だが、つい最近、ふとテレビを見ていたら
「50日間イケメンに手取り足取りしてもらったら女性の顔は変わるのか?」
みたいなことを検証するバラエティ番組があった。
そこに登場したイケメンの一人が、まさかの当時一緒におにぎりを握っていた駆け出しのフラメンコダンサーさんで、思わず速攻で録画ボタンを押した。
主宰するフラメンコ教室も人気だと紹介されていて、変わらず夢を生きている姿を5年以上ぶりに拝見して胸が熱くなった。
信念があって、一般就職を選んだ
ただ、『良い大学を出て大きな会社に入る』以外の生き方は、自分の人生の選択肢として捉えるにはあまりに突飛すぎたのが、実際のところだった。
もともと保育士をしていた母の影響もあってか、昔からこどもが大好きで、いつかはこどもに関わる仕事がしたいと思っていた。
でも教師や保育士といった「先生」になるのは安直な気がしたし、大学の教育学部を出て教師になるなんてことは、世界が狭まってしまうような気がして嫌だった。
大半の学生は、就職活動をして企業に入るわけで。
それなのに、就活もしたことがない先生に進路指導ができるのか?
とか、
学校という狭い世界しか知らない大人がこどもたちに教えられることって限られているのでは?
とか思っていたし、先生たちがインプットの時間を取りづらいような学校教育の仕組みに疑問を持っていた。
こどもたちに関わるなら、まず就活や、一般企業で働くことを経験して、色んな場所に行ったり、色んな挑戦をしたりして、こどもたちがなかなか出会えないような『面白い大人』にならないと。
という信念があった。
その結果、大学も教育の道は敢えて選ばずに、高校時代に最も関心が高かった『政治学』が学べる学部に進学したし、みんなと足並み揃えて就活し、一般企業に就職することにしたわけである。
人間関係に悩んだ幼少期の経験
ところで私は、中学1年の夏から1年間、海外で生活した経験がある。父が仕事の都合でスイスの研究所に派遣されることになり、家族みんなでついて行ったのだ。
スイスのジュネーブから国境を越えてすぐのフランス側に住み、現地校に通った1年間。
多分かなりマセていて、物分りの良いこどもの振りをして心の中ではどこかひねくれていたような当時の私は、いくらテレビで海外の映像を見ても、自分の目で直接見ない限りは虚構かもしれないと本気で思っていた。
だから、世界地図に載っている『外国』の地をリアルに踏んで、見たことのない景色を自分の目で見て、目の色や肌の色や話す言葉の違う人と実際に対面したことは、大きな衝撃だった。
──世界って、本当に存在するんだ。
そう思ったら、息苦しく感じていた日本でのあれこれもちっぽけに感じた。
いざとなったら、逃げ道なんていくらでもある。
視野が無限に広がって、人生の選択肢が無数にあることを知った経験だった。
帰国後にいじめられた時も
「みんなは世界を知らないんだ。そりゃあ窮屈だよね。可哀そうに。いじめちゃうのも仕方ないよね」
と思えるほどだった。
まあ、いじめられるのはそれなりに辛かったし、だいぶ悩んだけれど。
人間関係やら何やらで悩むことの多い幼少期・青年期に、視野が広がる経験をすることが、どれだけ救いになることか。
私は身をもって知っている。
だから自分は、後に続くこどもたちに、そんな経験を届けられる大人になりたいとずっと思い描いてきた。
私自身が、こどもたちの視野を広げるきっかけとして存在したいのだ。
不安を抱えながら新天地へ
そんなこんなで私は、教育とは関係のない企業に就職した。
しかも、東京に本社を持ちながら全国転勤の可能性がある会社を選んだ。
それは、縁もゆかりもない自分の知らない土地で生活してみたかったから。
正直なところ、関東を出てひとりで生きていくイメージは全く湧いていなかったけれど、『転勤』は大きな経験になると思ったし、漠然とした憧れもあった。
入社後数年は関東勤務だと言われていたから、慣れてきた頃に転勤なんて丁度良いなあ、とのんきに思っていた。
しかし、2か月間の研修を終えて告げられた配属先は、まさかの仙台。
会社的にも、自分的にも、異例の展開だった。
不安いっぱいでスタートした転勤生活だったが、環境に恵まれて、すぐに慣れた。
父の出身地が福島県だったこともあり、東北に多少のルーツ感があった。
方言も心地よかったし、食べ物は美味しいし、仙台を拠点にいろいろ旅するのが楽しくて、すっかり東北のとりこになっていた。
仕事にはやりがいを感じていたが(不満もそれなりにあったけれど)、そろそろ転勤かもしれないとうわさに聞いた2年目の終わりに、東北を離れるのは嫌だなという思いが募って転職活動を始めた。
同時に、敢えてこどもたちとほとんど接することのない仕事に就いたけれど、やっぱりこどもが好きなのは変わりなくて、少しでもこどもと関わりのある仕事がしたいと思うようにもなっていた。
転職エージェントサイトに登録して、電話面談をしてもらったら、こども関係の仕事に就くのは無理だと言われて驚いた。
教師や塾講師など「先生」以外でこどもに関わる仕事は、ほとんどベンチャー企業みたいな類だから、営業経験がないと転職は難しいですよ、と。
営業系の仕事に転職するか、今の職場で営業職に移るかして経験を積んでから目指してください、と言われ、少し落ち込んだ。
そんな時に出会ったのが、『地域おこし協力隊』という制度だった。
総務省が展開する地方創生策のひとつで、都会から移住したヨソモノ・ワカモノが地域で活躍する、みたいな制度である。
調べたら、全国の『田舎』と呼ばれるような市町村で募集があって、仕事内容も多岐にわたっていた。
中でも、町のPRみたいな内容で募集している自治体が多く、地域の人たちとのやりとりや、移住希望者への働きかけなどが求められており、趣味の写真撮影やSNS発信が活かせそうだし、何よりこれって『営業系の経験』になりそうじゃない!?と感じた。
そうして私は、ご縁あって、岩手県紫波町(しわちょう)の地域おこし協力隊として着任することになった。
紫波町で夢を叶えたい
地域おこし協力隊の任期3年間は、町のPRを中心に色んなことをやらせてもらった。
紫波町としては初の隊員募集で、1期生としての採用。
ありがたいことに、イベント企画や先進地視察など、私がやりたいことを提案してNGになったことは1度もなかった。
私も手探りだったが、町も手探りだったんだろうなと今になって思うが、本当に感謝してもしきれない思いでいっぱいだ。
町の職員(特別職)として雇われた3年間を終え、私はそのまま町に残ることを決めた。
すっかり紫波町が大好きになり、大切な人たちとたくさん出会い、ここで夢を叶えたいと思うようになっていたからである。
私の夢は、誰もが自分らしく生きられる社会をつくること。
そして、こどもたちの視野が広がったり人生の選択肢が増えたりする経験をサポートすること。
ちょうどコロナ禍の1年間となったが、協力隊卒業後の1年間は、町内の保育施設で保育士として働かせてもらった。
いきなり起業する勇気が出なかったことと、保育の最前線を知りたかったこと、現場からできることがあるのではと思ったことから、保育施設で勤務することを選んだ。
本当はもう少し長く現場にいるつもりだったのだが、色々考えて、様々な事情も重なって、1年間で退職する運びとなった。
経験もほとんどない私を採用してくれ、こんなワガママを許してくださった園には本当に感謝しているし、この1年間で学んだことは本当に大きかったと思っている。
今こうして、一人でやっていこうと決意できたのは間違いなく、この1年間があったからだ。
私の個人事業主としての屋号『あそびこむ』は、遊びに夢中になって打ち込んでいることを表す保育用語(?)の「遊び込む」に由来する。
地域おこし協力隊として移り住んだここ岩手県紫波町を拠点に、こどもの居場所づくりやイベント企画などに取り組んでいく。
実は協力隊時代に『あそびCOM』という名前の任意団体を立ち上げ、こども向け・親子向けのイベントを開催していた。
その活動を軸に、個人事業として展開していく予定である。
今までの活動についてはfacebookに残してあるので、良かったら見ていただきたいと思う。
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