佳村明依(メイさん)

大学を卒業後、看護師を経てから再受験医学生になったひとです。よく星を眺めています。

佳村明依(メイさん)

大学を卒業後、看護師を経てから再受験医学生になったひとです。よく星を眺めています。

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はじめまして

こんにちは、メイさんです。 いきなり名乗っても、「君は誰だ?」という感じですね。その通りです。 ノートのプロフィールでもさらっと書いていますが、私は大学を卒業後に看護師として病院勤務をした後、ちょっとだけ大学院生活を送り、予備校での浪人生活を経て、今年から医学部医学科に入学して現在は医学生をやっております。所謂、再受験医学生というやつです。すでに3つめの時代を生きている昭和生まれです。笑 今のご時世、再受験で医学部を目指す人も少なくありません。それにも関わらず、既卒再受

    • 言刃

      昔から私は、「ことば」は「言葉」より「言刃」という方が合ってる、という旨のことを書き散らかしているのだが、過去に書き留めていたものを見つけたので、それを書いておこうと思う。 04.2.14 SAT じぶんがいきていることが、ふしぎなことのようにもおもえてしまったりするきょうこのごろなのであります。 わたしは、いままでいったい、なんおくのことばをはいてきて、またそれがのべなんまんのひとをきずつけてきたのかとおもうと、とっくにてんばつがくだって、しんでいてもよいとおもうのです。

      • 片付けられない。

        1日空いてしまった。まぁ、それだけ昨日は充実していたということだ。 私は、部屋が片付けられない。何故か分からないけど、昔からそう。多分、物が多いのだろうということはなんとなく分かるけど、かといって不用品で溢れているわけでもない(つもり)。何故か、とにかく片付けられないのだ。 服が多すぎるなと思ったので、モデルをやってる友人に相談して、募金系の古着回収サービスを使ってみたこともある。それで中々の量の服を処分できたはずなのに、全く事態は改善しない。 とりあえず、自分にとって

        • for ??

          以前は悩んでいた君が、目を輝かせて夢を見つけて、後ろ向きさを抱えつつも健全に生きられるようになって、それをみているのが私は楽しい。その傍にいられて嬉しい。 今の前を向いている君も素敵だけど、病んでいる君も素敵だったよ。 つまり、全てが素敵ってことだ。それは前を向こうが後ろを向こうが、変わらない事実。

          医学部5年生の日々

          医学部の5年生は、臨床実習が生活の中心になる。また、見学中心の実習がポリクリ、診療参加型の実習がクリクラと呼ばれている。各大学ごとに、診療科の回り方や、人数などには色々と違いがあり、詳述すると大学がバレる可能性があるので、ここでは割愛する。だが、ある程度少人数の班に分かれて実習する、というスタイルはどこも共通しているだろう。 一定の期間(2週間とか)ひとつの診療科で実習をしたら、次の診療科にいく。それを1年くらいかけて、実習はすすんでいく。 基本的に、臨床実習期間中は、班

          医学部5年生の日々

          大学に於ける部活の存在意義

          各大学にはそれぞれ色々な部活があるが、弊学も例外ではない。運動部で大会に出て頑張っている部活もあれば、文化部で定期公演に向けて練習をしている部活もある(もちろんそういう公なものを目指すのではなく、仲間内や個人で楽しむ部活もたくさんある)。 私は文化系の人間なので文化部の定期公演の話になってしまうが、そうやって部活の中で頑張っている同期たちや先輩・後輩たちの姿は、また普段とは違って見える。とりわけ、自分が触れたことのない楽器や、経験したことの無いことをやっている姿を見ると、単

          大学に於ける部活の存在意義

          みかん始め

          寒くなってくると、無性にみかんを食べたくなる。 毎年、みかんを買う日付などが細かく決まっているわけではないのだが、今年は今日、たまたま立ち寄ったスーパーで積まれていたみかんがとても美味しそうだったので、買ってみた。小粒で果実にハリがあり、甘味も十分。みかん始めには、ぴったりな味だった。 みかんをたくさん食べる年と、そうでもない年がある。それは大体、そのシーズンのみかん始めの時に食べたやつが美味しかったかどうかで決まるような気がする。今年のは美味しかったので、多分みかんスイ

          疎外されゆく本音

          疎外感。自分も所属しているはずの集団の中で、自分がいない時に何かイベントが起こり、自分以外の人たちがその経験を共有している。思い出を共有している。その結果、その思い出の中に私は当然入れない。経験を共有できない。そのような事態が発生した時、そのことに対して、物凄い疎外感を感じてしまう。悲しくなる。また一つ、私はその集団からの距離が出来たかのように思えてしまう。 なぜ、それで疎外感を感じるのだろうか。なぜ、そこまでして「同じ経験」を共有することに固執するのだろうか。 もちろん

          疎外されゆく本音

          「求められる」ことの影

          休日に仕事関係の連絡を受けるという状況があるとする。ある人はそれに対して、自身のプライベートな時間を割いているため休めないから疎ましい、と感じる一方、ある人はそれを「自分が必要とされている」とポジティブに捉える。どちらが健全な考えなのだろうか。 まぁ、全ての物事は二元論で語れるはずが無く、どちらの捉え方にも良い点・悪い点があると思うが、私には前者の方が健全な考え方なのではないか?と思う(自戒を込めて)。 前者の考え方は、仕事と自身のプライベートな時間をしっかりと分けて考え

          「求められる」ことの影

          マニュアル化と個別判断の価値

          何かを組織で行う上で、マニュアルというのはどの程度重要視されるべきものなのだろうか。 勿論、安全を確保する上でとか、画一的な対応をするために、複雑な手順を説明するために、という意味合いでのマニュアルは、必要な側面が多々あるだろう。しかし、個々の判断にある程度委ねられる状況の中でも、「責任が重くなって精神的な負担が大きくなるから、マニュアル化されていないと困る」というスタンスは、些か行き過ぎた思考の放棄のように思えてしまう。それは、単なる責任逃れの手段としてマニュアルを使おう

          マニュアル化と個別判断の価値

          気付きの迷宮

          突然だが、私はとても視力が良い。多分、この年齢でレーシックなどの治療を受けずに、裸眼視力を両眼ともに1.5をキープしているのは、割とレアなんじゃないかと自負している。それゆえなのか、些細なことに気が付いてしまうことが多々ある。 例えば、病棟で働いていたとき。患者さんが内服しそびれて床に落としたまま放置されていた錠剤を発見するのは、大抵私だった。もちろんそれは、インシデントレポートとして規定のシステムに入力することになる。しかも、こういう誰が直接的に関わっているのか分からない

          医学と文章力の交差点

          今日、初めて出会った卒業生の先生(かなり年上の先生)とお話ししていて、「医者には国語力が必要」「自分がしっかりとした言葉で語れなければ、患者さんの話も理解できない」など、すごく身に染みるお話があった。 私が精神科領域を志望しているということを話したから、より言葉の必要性を語ってくれたのかもしれないが、文章力というか国語力というか、そういった類のものについては自分でも伸ばしていきたいなと思っていたので、余計に頭に残ったのかもしれない。 医師で執筆業をしている前例はたくさん居

          医学と文章力の交差点

          諦めを学ぶ途上

          生きづらさのフェーズが変わったように思う。前は、自分の夢(医師になりたいことと、もうひとつのやりたいこと)に片足すら突っ込めない状況が苦しくて、自分に与えられた現実を受け入れたくなくて、それが生きづらさに直結していたように思う。 今はそれらに両足を突っ込んで、どちらもそこそこ進んできた。「医師になること」に至っては、今の調子でいけば、あと1年ちょっとで実現する。じゃあ、なぜそれでも生きづらいと感じてしまうのだろうか。 それは、今度は「何者にもなれない自分」に対して満たされ

          無感情な有機物

          あらゆる記憶が薄れてしまえば、嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも全部薄まって、フラットな人間になるのだろうか。 ただ、認知症の人をみていても、感情が消える気配は見当たらないから、単純に記憶が薄れることが感情の安定には繋がらないのかもしれない。あ、でもそもそも認知症の人って昔のことは覚えてることが多いか。それならやっぱり記憶と感情って関係あるんかな。 嬉しいことや幸せなことがあった後に色々変化が生じた時の悲しさややるせなさは、その嬉しかったことや幸せなことの記憶が消えてしまえば

          言語化の難しさ

          時事問題や社会問題、そして自分が触れた芸術作品(音楽や演劇、絵画、文学など)について深く考察したり感想を述べたりしているものを読むたびに、私自身の人間性の薄っぺらさを突きつけられるような気持ちになる。 今の私は、そういったものに対して自分の考えを語れない。正確に言えば、上辺だけ取り繕って「それらしきこと」は言える。それは年の功といいか、「こんなことを語っていれば、それっぽく聴こえるだろう」っていうのを経験則的になんとなく分かってるからだと思う。ある種の取り繕いだ。 見聞き

          本が読めなくなった3つの理由

          よくnoteやSNSでも書いていることではあるが、わたしはここ数年、本を読めなくなっていた。幼い頃に文字が分かるようになってから小学生までは、本の虫だった記憶がある。偉人伝、図鑑、科学系、小説などなど、図書室にある本をたくさん借りていたし家にもたくさん本があった。でも、中学・高校と進むにつれて次第に本を読むことが減っていき、前の大学に入ったあたりからは殆ど読まなくなった。それが比較的最近までずっと続いてきたが、敬愛するお方のお陰もあって今は読書量が徐々に増えてきている。読書リ

          本が読めなくなった3つの理由