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言語化の難しさ

時事問題や社会問題、そして自分が触れた芸術作品(音楽や演劇、絵画、文学など)について深く考察したり感想を述べたりしているものを読むたびに、私自身の人間性の薄っぺらさを突きつけられるような気持ちになる。

今の私は、そういったものに対して自分の考えを語れない。正確に言えば、上辺だけ取り繕って「それらしきこと」は言える。それは年の功といいか、「こんなことを語っていれば、それっぽく聴こえるだろう」っていうのを経験則的になんとなく分かってるからだと思う。ある種の取り繕いだ。

見聞きした物事や作品について、何も感じていないわけではないと思う。その自覚はある。でも、それについて自分の言葉でちゃんと語れない。なぜそうなってしまったのだろう。

またかよって感じもするが、これも親の影響が多少はある気がする。私の親(特に母親)は、あらゆる物事に対して批判的であったり、あるいは評価がコロっと180°反転する人だ。最初はある物事や人に対して褒めちぎっていたのに突然激しく批判し始めたり、はたまたその逆であったり。そこには、「自分の頭で考えて、自分の言葉で考えを語る」という行為がない。とにかく否定するのだ。私が語ったことに対しても、全てこの調子だった覚えがある。だから私は自分の考えを言語化することをやめてしまったのかもしれない。

自分で考えて自分の意見や感じたことを言語化できないんじゃ、そりゃ自分の人生を生きることが出来なくても当然だよな、と思う。

でも、そうやっていつまでも親のせいにして自分ができないことに対して理由を与えて満足しているようなダサい人にはなりたくない。こう思えているだけマシなんだ、と自分に言い聞かせて、それを支えにするしかない。少なくとも今は。

せっかくそれなりにインプットする機会が多いから、言語化の練習もしていきたいな。

ではまた。メイさんでした。

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