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マニュアル化と個別判断の価値

何かを組織で行う上で、マニュアルというのはどの程度重要視されるべきものなのだろうか。

勿論、安全を確保する上でとか、画一的な対応をするために、複雑な手順を説明するために、という意味合いでのマニュアルは、必要な側面が多々あるだろう。しかし、個々の判断にある程度委ねられる状況の中でも、「責任が重くなって精神的な負担が大きくなるから、マニュアル化されていないと困る」というスタンスは、些か行き過ぎた思考の放棄のように思えてしまう。それは、単なる責任逃れの手段としてマニュアルを使おうとしているようにしか思えない。

「誰かが考えたやるべきこと」に従って、それのみでしか行動しないのだとしたら、そこにその人が関わる意味合いは薄れてしまうし、臨機応変な判断は不可能になる。そう考えると、医療現場の最前線に於いては、絶対的なマニュアル化は不可能だ。

そもそも、マニュアルとはどういう意味なんだろうと思って調べてみたら、

①機械・器具などの取り扱い説明書。手引き。②行動や作業の定型・手順をまとめた小冊子類

と出てきた。今回取り扱っているのは勿論②のことなのだけれども、それってそんなに重要視すべきことなのだろうか。私は元々、①の意味のマニュアルをほとんど読まない(安全上何か必要なことがありそうな場合は読むけど)。組み立てるのに困ったときとか、本当にどうしたらよいのか分からなくなった時に立ち返るものとして手に取ることはある。②の意味のマニュアルも、大まかな方針の確認と、困った時に参考に出来ることがないかの確認に使うんでいいんじゃないか?と個人的には思ってしまう。

まぁ、それは私が指示行動が元から苦手ということもあるが(それについては後日また書くつもり)、一般的にはどうなんだろうか。少なくとも私は、マニュアルを自分で考えることを放棄する手段として使いたくないな、と思っている。それは、「考える」ということを取り戻しつつある現状だからそう思えるのかもしれないが。

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