SHOGUNを帰国子女が見た感想
はじめに
ここ1年か2年か、真田広之さんの米国での活躍は普通に見ていて、日本魂というか、60歳くらいの日本人としての誇りだったり、強い日本を信じている気合みたいなのをひしひしと感じていました。
私の世代より若い世代は、空白の30年、追撃するアジア周辺国家の成長、そして政治とカネの問題、積み重なる国民負担と生きていること、日本人であることに可能性を感じられず、抑えられて生きてきたような世代です。
それに伴い、都合の良い欧米文化と物資が日本に入ってきたことで、愛国心や武士道みたいなものを忘れている世代が大半なので、この元気で日本人のガッツのある世代を見ていると少しこそばゆいというか、暑苦しいというか、でも一方でいい時代だったんですねと羨ましく思うことはあれど、私もああなりたい!と思えるバイタリティーは持てずにいました。
こうした中でSHOGUNとエミー賞を通じて見た日本の時代劇というものへの評価、もちろん結果がすべてではあるけれど、真田さんはじめ、多くの日本人俳優、女優がハリウッドの海外チームに臆することなく、しっかり日本の歴史、戦国の世を実写化してくれたこと。そしてそれらを日本の筋を通して世界が迎え入れやすい形にリメイク、いや、どちらかというと西洋の歴史を無理なくMerge(融合)してくれたことを誇りに思います。
目次
帰国子女が感じていた西洋と東洋
学生時代の葛藤
私は帰国子女の中でもおそらくレアな帰国子女で、日本式の教育で小学校・中学校をフルに形成してから米国の現地校に放り込まれたタイプです。そのため、米国やヨーロッパでそのほとんどを帰国子女として過ごした人とは、もしかしたらまた少し考え方が違うのかもしれませんが、その分「日本人」としての葛藤は大きいほうだったと思います。
日本の純教育を小学校9年間経験(そのうち3年間は東南アジアの日本人学校)したことで、日本人の感覚である日本以外の国はどこであろうとひとくくりにして「外国」であり、一般的に欧米系のイメージで外国が処理されることが多いことは理解できています。
しかし、東南アジアでの日本人としての生活と、米国での日本人としての生活は本当に同じ外国でも天と地のほど違います。生活しやすさという点で言えば食文化はアジア圏内のほうが親和性が高く、何よりも外見的な意味では差別的な行為を受けることは格段に少なく、溶け込むことができるメリットを享受できること、これは米国生活で痛感することになりました。
一方、東洋と呼ばれる同胞たちアジア・東南アジア諸国とは地理的な問題もあり深い歴史のかかわりを持っていることから、私の力ではどうにもできない因縁を持たれている国が多くあることも事実です。この日本人がいまいちピンときていない「積年の恨み」というものは、時として人を殺すパワーすら持ち得ます。これは日本と歴史問題を持つ東洋諸国に住んだ人には分かることかもしれません。
我々の先祖が行った侵略の歴史、昔のことだバカバカしいと思う人は大勢いますが、事実日本はどこにもかしこにも侵略という形で首を突っ込んでしまっている。「仕方のないことだった」そう思ってくれる良心的な国のほうが圧倒的に少なく、そしてそういった国の存在(例えばインド・台湾)を日本人は教育として受けていないので感謝もしませんし、むしろ未だに賠償や謝罪、反日教育というものを政治的に上手く利用して国を成長させていこうという国に対して昨今は我々も強いヘイト意識を持つようになってきているような気がします。そういう対立が根深くなるほど政治はそういった心理を利用しますから、この方針を曲げる未来が来るのは難しいのかもしれません。
西洋は自分たちが圧倒的に優位な立場をそもそも東洋よりも持っていると考えている人が多くいることから、こういった争いごとを気にも留めていないですね。そして日本人も白人と呼ばれる人たちにはめっぽう弱い。こういった意識を第二次世界大戦後は強烈に植え付けられてきました。
こういった肌の色の問題は世界中でまだ残っていますが、東洋人としてまとめられた際の自国の文化を軽視された様、または誤解された文化が西洋でよく東洋に興味もない人による娯楽、マネタイズに使われてしまうことは日本人の私にとってはとても心苦しい出来事であることは間違いありません。
日本人を誤解してしまうことは仕方がないこと
私たちがイギリス、フランス、ドイツ、イタリア界隈の人をひとくくりにしてみてしまうように、彼らもまた中国、韓国、日本、そして東南アジアに住まう中華系の人をひとくくりにして誤解して理解していることも多いのは仕方がないことかもしれません。米国でもこれは同じ、ハリウッド映画やアニメの描写をみれば中国風のセットで日本人の侍が立っていたりすることは普通にあることです。
そもそも誤解したりしてしまうのは、その国に対してさほど興味がないから起こることで、人が常に自分の国に興味関心を持ってくれるわけでもないです。だからこそこういった現象に出会ったとき、自分の立場だけを見て「差別だ!」と本気で腹を立ててしまう人が多いことを悲しく思います。そういって叫んでいる人ほど、他国に理解がない、興味もない、情報が単一化していることが多いからです。特に自分がマジョリティーな集団に生きる経験を持続してしまうとマイノリティーな人々の気持ちが理解できない、客観的に物事をとらえる練習が著しくできないため、脳がXYZ軸に物を見る経験を養えない、だからこそ若いうちの苦労は買ってでもしろというのかもしれませんね、先人はとても賢いです。ただ、世界がボーダレスになっている今、その客観性を持つ広さもまた末広がりに広がっており、先人たちよりももっと広い意味でXYZ軸に物をみなければならない、誤解だらけの世の中になっていることはグローバリゼーションの弊害かもしれません。
私の見てきた興味深い外から見た日本
実際、日本に住んでいたら分からなかったこと、出会わなかった人、しなかったろう経験は万とあります。これは日本人コミュニティーに自分がいかに守られているか、無菌であったかを痛感させられるエピソードです。
東南アジア:日本に侵略された歴史を持つ国に住まうということを軽視というかそもそも知らなかった中学時代の私は中学1年生で東南アジアの学校に編入しました。学校の行き買えりはスクールバスが鉄板なのですが、部活がある場合は帰りは公共交通機関で帰宅していました。その際、あまり日本人がいない駅を通過するのですが、その際に生卵を投げつけられて中国語で叫び狂われるという経験をします。最初は全く意味が分かりませんでしたが、日本がこの国でたくさんの人を殺戮した歴史があること初めて学ぶことになります。近代史の教科書では数行で済まされている部分で、詳細な国名もなく、中学生の私がその歴史を自分の意志で学ぶことがなければ分からり得ないことが沢山ありました。この経験が今の日韓、日中への考え方の基礎になっている部分があります。歴史は人に怨念を残してしまうこと、それをバカバカしいとは言えなくなった、そんな加害者側としての感覚です。
日本兵がした残略な歴史というものを観光スポットでひたすらムービーで流されて肩身が狭い思いをしたり、建国記念日には日本がむごいことをしたことを忘れないとばかりに歴史を振り返るテレビメディアや祭典に心を病みました。かと思えば「からゆきさん」と言われる日本軍を心身ともにねぎらうための職業に従事した女性たちの墓を掃除にしに行く日があったり、その墓が大破している横で軍人として名誉の死を果たしたと呼ばれる男性たちの墓が立派にそびえたつ様に女性として悲しい気持ちになったのです。
とにかく日本人が歴史で何をして、そしてそれを日本の歴史はどれだけ子供たちに教えないでいるか、その無知さを痛感して歴史に興味を持ち始めたのはこの頃でしょうか。
アメリカ:高校で転入してすぐ、英語が分からないなら世界史であればこの子は理解するのでは?といった計らいもあり、100%アメリカ人生徒が在籍の世界史のクラスを取ることになります。転入早々、タイミング悪く勉強内容はアメリカが関わった世界大戦についてがテーマでした。アメリカはこう考えると多くの戦争をしてきていているものの、アメリカが攻撃されたのは完全にパールハーバーがメインになります。そうなってくると、それをした日本がやった侵略については完全に悪物として取り扱われます。もちろん日独伊についても触れられており、ホロコースト(ナチス迫害)については結構ヒトラーが極悪人のような感じで書かれていてそこは日本もそんな感じだったので違和感なく受け入れました。悪の三銃士の末柄みたいな感じで、クラスが日本人としての私に冷たい目を向けているのは言語が分からなくてもなんとなく察して肩身が狭かったのを覚えています。
ここだけの話、でも気持ちは少し楽だったというか・・・、東南アジア時代のような個人的な恨みというか殺意というよりは、低能な負けた国を成敗してやっているアメリカ優等国民みたいな見下す感じだったから憎悪的な物は一切感じなかったので逆になぜか被害を受けているというような気持ちにすらなりました。
それは日本教育の賜物ですが原爆を落とされたという観点からです。実際教科書も今は分かりませんが、当時はあまりに一方的な物の書き方と、原爆を落としたことでアメリカという正義の国が制裁をくだしてやったみたいな感じでハッピーエンド風に終わるのです。勿論、先にも述べたとおり、日本で教育を受けてきた純国産の私は腹が立ちます。君たちの先祖が落とした原爆でどれだけの人が今も苦しんでいるか、君たちは考えたこともないだろう!何もしらないできのこ雲だけみて興奮して、バカなんじゃないか!と。
当時の若くパッションにあふれていた私は気付くと英語もできないのに教師に直談判して原爆の発表をするということでチャンスを貰います。長崎と広島の原爆博物館に連絡をして資料を提供してもらうなどして1か月後クラスで発表する機会をもらうなかで、この発表をすることで日本人として何を理解してもらいたくてこんなにいらだっているのかがわからないを一周して、冷静になった自分に気付きだしました。
日本が西洋の国にどう思われていたのかを知ったし、それに加えて東南アジアでの日本がしたことについても振り返る中で、東洋に住まう日本、西洋に住まう日本という二つの立場を考えるようになります。その結果、高2の頭で導き出せたことは、未来に生きる西洋だろうが東洋だろうが私たち子どもがやらないといけないことってなんだろう?という方向で発表をしたくなりました。英語が全く分からないまま発表をしているとあまりの過激な映像に気分が悪くなった生徒がでたりと、それそれで忘れられない光景が教室に広がった。授業が終わったとにGood Job May.と同じクラスの男子に肩を叩かれた。なんか日本人として生きるということが分かった瞬間というか、日本人としてやれることやったなという達成感みたいなのを味わったのです。
日本人としての誇りと東洋人としてのプライド
海外に住むともうひとつ、日本という国を大きく誤解させる原因として、アジア人のお金持ち根性というのが挙げられるかもしれないです。攻撃するという意味ではなく、少し自分が日本人とか中国人だとかそういう人種的な感情を捨ててここからは読んでもらえると嬉しいです。
例えばお金を稼ぐこと、富を得ることにひときわ貪欲な中国人の存在は、時として日本の文化を歪曲させてしまうことがあります。彼らは日本人よりも利益になること、お金になるものに対して貪欲であり、チャンスを逃しません。だからこそお金のためであれば日本人のふりをしてビジネスができ、そこに感情を盛り込まない人がいます。日本人は欧米人になりきる人はかぶれているという意味ではいますが、お金儲けのために歴史的に敵対している国の人になり切ってどうこうするみたいな文化はあまり持ち合わせていません。この文化の違いというか、生き抜くための価値観の違いを受け入れるのには、まだまだアジア人同士とはいえ長い時間が必要となることでしょう。
ただし、中国人は勝った負けたをはっきりしたい国民性をもっているので、他の東洋人と同格に扱われることを嫌う性質があります。これは日本人でもアジアNO1だと未だに信じてやまない人がいるので同じ感覚があるかと思います。しかしながら、西洋という大きな大陸を前にこのような東洋人同士のどっちが下で上かみたいな小競り合いみたいなものは全くの無駄であるということ、それは欧米で暮らした人はわかるかと思います。
我々はアジアン・イエローモンキーなどといわれ黄色人種として差別されてしまう。これは中国人だろうが韓国人だろうが日本人だろうが変わりません。人によっては西アジア、東アジア、東南アジアの区別もありません。だからこそ、我々は時として手を取り合って自分たちを守ることがあります。私自身、アメリカに住んでいるときは、中国人や韓国人の数少ない生徒と揉め事を起こすことはありませんでした。そんなことよりも日々、学校にいる98%の白人と、1%の黒人に対して頑張って生き抜くことのほうが大切だったからです。
ただし、そんなド田舎でも、日本人に物は売らない中国商店はありました。それでも面白いのは日本人があんなに嫌いな店主もおーいお茶などの日本商品を輸入し取り扱って販売していたこと。彼らは日本の商品が高品質であり、人気があることは分かっています。だからこそお金になることに関しては日本を受け入れることができるという不思議な価値観を持っていることを学んだのもこの頃かもしれません。
こういった経験が私にとってアジアという集合体を同胞として受け入れなければいけないという現実と、協力することの難しさを今に教えてくれています。ただし、こういう性質がある隣人から本当の日本を継承して発信していくことの大切さというのも学んでいます。例えばBENIHANAというアメリカの鉄板焼き屋さんで働くほとんどのシェフは中国系です。日本人に私は出会ったことがありません。でもアメリカ人は日本人だと思っている人も大勢いて、それが日本の文化だと思っている。こういったことを「違います」と言わなければいけない、これが東洋人としてのプライドと日本人としての誇りを維持することがイコールで保ちにくい側面でした。こういった感情を何かひとつ、上の段階に押し上げてくれたのがSHOGUNというドラマと、真田広之という日本の俳優さんの存在だったように思うのです。
本当の東洋、日本を伝え守ること
SHOGUNを通して感じるガッツ
おそらく2024年、この時代になっても日本を正しく世界に発信することは難しいです。特にSHOGUNのような歴史物、特に独特と言えるであろう侍の文化を正しく海外で忠実に再現して人々から理解を得るのは格段に難しいと思います。なぜならそれらはもう私たちも見たことがない過去であり、そして多くの風習がもう消えている。今の日本人は違う容姿で生きていて、消え去ったものは今主流とされる西洋の文化とは対岸にあるものだからです。だからこそビジュアルとしては面白い。忍者や侍が人気なのは、今も欧米の人が相撲や歌舞伎のようなエンターテイメント性を日本らしいと好む何かに精通しているものがあります。これらをマネタイズに適当に使うエンターテイナーや表現者が後を絶たないのもこのような理由があるかと思います。理解はしないが、ビジュアルだけ頂くねというものです。そしてこういったことは世界中どこでも起きていると思います。
先にも述べたとおり、日本をマネタイズとして都合よく使うアジアの同胞たちはこれを心得ており欧米で賢く活躍しています。そういったことを悪いことだと考えるのはあくまでも日本人であり、必ずとしてそれが他国で通じるわけでもない難しさがあります。資本主義の今、お金になればなんでもしていいのだ!そういう文化は現在の日本でも着実に育ってきていることです。最近だとSNSでそのようなマネタイズをしている人も多いですよね。特に他国への敬意を払うことに関しては、日本もあまりできる人は多くないことも忘れてはなりません。人は想像力に乏しいもの、自分が嫌な思いをして初めて他社の痛みを知る。だからこそ自国に留まり閉鎖的な環境で暮らす者同士がお互いを知るにはとても長い時間がかかるのだと思います。
それでも海を越えた日本文化たち
こういった弊害もある中で、日本や中国の歴史の独特さは欧米の映像演出、絵画、文学に精通している人を魅了し、愛されていることも有名な話です。そして東洋人でもその全くことなる未知たる英知を学ぶため、多くの人が海の外へと学びに出ているのは同じことです。
こういった人たちはおそらく完全にマイノリティーで歴史的にみてもそう多くはないのではと思います。今の時代も東洋人やその文化に興味をもつ西洋人はマジョリティーとは言えないです。だからこそ、特に日本人の私たちは
「興味を持ってもらえただけでありがとう!」と思ってしまうがあまりに、その表現内容に妥協してしまいがちです。その弱みともいえる部分を次のステージに移してくれたのが真田広之さんがこだわりぬいたSHOGUNという作品だったと感じます。
ハリウッド時代劇の遍歴
アメリカンSAMURAIとNINJA
前置きとして、これまで侍時代劇映画にみるハリウッドの最高傑作は2003年、トムクルーズ主演のLAST SAMURAIだと認識している欧米人は極めて多いかとおもいます。あの映画には渡辺謙さんや真田広之さんなどが出演したことで日本でも有名になりましたし、実際に日本でも興行収入は137億円、これは日本の歴代興行収入22位です(CINEMAランキング2024年現在)。余談ですが、海外映画の国内興行収入トップは277億円の3位で1997年上映のタイタニックだそうです。
ちょうどその映画が上映された時、私はアメリカに住んでいました。あの映画がもたらした影響は私の学校生活にも大きかった!例えば、知らない人からGIRL SAMURAI!と呼ばれて振り返ったら笑われたり、忍者!とかいいながら変な物飛ばされたり?はたまたモールで刀を抜く動作を私の前でしてくるような頭の悪い人もいました。でも今思えば、彼らはそれほど日本の文化に触れる機会がすくなかったから斬新に見えたんでしょうね。私から言えばあれは日本じゃなかった。実際、LAST SAMURAIには日本人でない人が日本の文化を分からないまま役を演じているエキストラが多くいたと思います。加工されて再編集された日本がトムクルーズを介して世界に発信された、まずこれは大きな第一歩だった。でも時代劇は飽きられてしまったのか、ハリウッドでそれいこう時代劇は映像化されてこなかったのです。鬼滅の刃などのアニメが注目され、日本ブームが今アメリカでも起きているそういった中でのSHOGUNという作品だったのかもしれないですね。
SHOGUNから見えるもの
SHOGUNを見る限り、この作品にはそういったLAST SAMURAIで日本が得た課題を悔しいと表現し、それを自分が関わるときはどうにか克服したいと考えていたという真田広之さんの熱い思いがあったと感じています。
1)よくわからない日本という島国の歴史物語をハリウッドという全く違う価値観をもった組織が大金を投じるプロジェクトで1人の日本人俳優が、アメリカ人には到底理解されないかもしれない日本人魂みたいなものを尊重してくれるように交渉したこと
2)西洋人には取るに足らないことでも日本人として正しく日本人が納得できる本当の日本の時代劇を映像化してやろうじゃないかというこだわりをアメリカの成果主義社会の中で上手くつなげられるような努力をスタッフとしてくれたこと
3)これらのこだわりをハリウッド制作人とステークホルダーの人が歩み寄りを持ちたいと思うくらいの何か情熱を伝えることができたこと
これは当たり前のようで日本の今までの国民性を考えれば奇跡に近いと思います。なぜなら日本はとにかく交渉事が上手ではないですし、独自のお作法や考え方が強い。ビジネスの上においても利益よりもプライドを優先するので欧米の人からはまどろっこしいと思われたりして交渉がとん挫することも多いなと感じます。エンターテイメントの世界でこういったことを乗り越えたというのは日本が次のステージに進んでいるような気持ちにさせてくれる、これは私だけじゃないんじゃないかなあ。。。
製作費が2.5億ドル(350億円)の世界
全10話、宣伝費用等も含めてなのですがざっくり計算したら各1話ごとの製作費が単純計算で35億円になるんですよね、日本にはできないスケールです。さすがDisneyというべきなのか。。。日本人はこだわりにお金に糸目をつけないみたいな文化がありますが、ハリウッドはそうはいきません。ステークホルダーという人々を利益という形で納得させなければいけない、しかも自分たちが理解できないこだわりをもつ小さな島国の役者たちがこだわりぬいた末の膨大な製作費、それって本当に元取れるくらいのものになるのかいな?という博打に近いものがありますから、この決定は並大抵のことじゃないと思うんですよね。
制作秘話にもあったのが、武士の階級によって作法が違うのでその専門家を日本から呼び徹底的に指導が入ったとか、撮影はカナダのバンクーバだったのだけれどそこに撮影村の漁村セットをまるっと作らせたとか、あとは瓦を1年かけて作ったのだけれど鳥に壊されるから修復しての繰り返しだったとか。衣装は全部日本から特注を取り寄せて作り、陣羽織の羽は手で1枚1枚埋め込んでいったというのです(ちなみにこれはフランスの方がダイレクションを取られたということでそれもまたすごくないですか?)。
誰しもがな「違いがよく分からないもの」に時間や費用を投資することには抵抗があります、特にシンプルな利益追求型のアメリカでは一般的に通用しないはず。結果、その成果主義の国であるアメリカでエミー賞18部門ノミネートまでいくまでには、Disneyを始め多くの人の努力があったことだと思います。何より、色々細かしい面倒な性質を持つ日本人(失礼)がみても違和感を感じさせない出来栄えであること、なおかつそれを西洋人が納得できるようにMergeさせていること。ここにSHOUGUNの特異性を感じます。
SHOGUN個人的なお勧めポイント3つ
最後に私の感想文としてSHOGUN見てよかったなー!と思ったポイントを3点お伝えして終わりにします。
1)SHOGUNのイギリス人の心情の変化が新鮮!
SHOGUNのハイライトできるところは、やはりハリウッドの要素がなんだかんだ組み込まれてるところです!個人的にお仕事とかでイギリス・フランス・カナダ・アメリカ・シンガポール・マレーシア・インド人とか?一緒にやってきましたが、これは西洋人には特に分かんないだろうなと思う、日本人のこだわりとか心得みたいな部分をしっかり「は?意味わからないんだけど?」と言語化していくあたりがとても解説的な意味を含んでいて秀悦なんです。こういう柔らかい突っ込みが存在できるところ、その視点が日本人からではないところ、これはハリウッドだからできたことなのではないかなと感じています。
自分たちのハウスルールと呼ばれるものが外者からしたら意味不明なことでも本人たちはいたって真剣なんてことはざらにあります。アメリカ人もそういうのありました、私は学食のピザにナイフとフォーク使おうとしたらわりかし本気でブチ切れられて指導を受けた経験があります。欧州はもっとマナーが大変そうですよね。カプチーノを午後に頼むとかありえないイタリアとかも正直理屈はあるんだけど好きにさせろと思うんですけどね。
2)日本の文化や価値観が分かりやすい!
これも(1)の派生にはなるんですが、私は帰国子女として生まれ育った関係で日本のいろんな不思議、特に人間関係的なものに葛藤を持つことが多いです。日本が良い悪いとかではなく、どうしてこうなっているのか?を考えるときにこの映画が助けてくれる場面があります。詳細はネタバレになるので言えないのですが、夫婦としての在り方、人の命についての考え方、自分対集団、自分対相手のポジショニングの仕方、感情の組み立て処理の仕方など日本特有の「美」があるんですよね。実際、そのいくつもの場面に欧米人代表イギリス人が戸惑いや葛藤、怒りを見せます。その場面で「そんなの当たり前です、これが日本ですから!」と思うのではなく、日本人はそういう他国には到底理解できない一面を持ち合わせているんだな、そういった側面を持っているのであれば国際社会に立った時にそれを自然に相手に期待してしまう自分をコントロールできないといけないな。みたいな自己理解に繋げることができる映画だなと思うんですよね、結構ハリウッドだからわかりやすくその場面をフューチャーしてくれてるのでお勧めできます。
3)鞠子様の英語の訳し方が良い
私は同時通訳みたいなことを会社の仕事単位でやったことがないので(個人的に頼まれてちょこっとやるとか、オンラインの仕事でピンポイントにやるとかで本業ではないため)正解がわからないのですが、劇中の鞠子様は常に逐次通訳をしています。では同時通訳と逐次通訳は何が違うのか?これは相手が話してるときに同時に通訳するのか、相手が文節ごとに切ったものを1テンポ遅らせて逐一通訳するのかの違いです。同時通訳はその場の言葉をどんどん理解して多言語に直していく難しさがあるため一般的に複数人数で交代して行います。それに対し逐次は時間があるため人数を必要としませんが、より正確で丁寧な対応が求められるとされています。
ちょっとだけ内容に触れちゃいますが、鞠子様(澤井 杏奈)は常にイギリス人の逐次通訳を務めている大変重要な役割を劇中では果たしており、吉井虎永(真田広之)に対して忠誠を誓う彼女がポルトガル宣教師から学んだポルトガル語を駆使して、難破船から捕虜になったイギリス人のブラックソーン(コスモ・ジャーヴィス)の通訳を任されることになります。
この時の彼女の何を訳して、何を訳さないか。これは海外のSNSでもミームになるくらい話題になりました。要は余計なことは逐一訳さず、結局こういうことやねん!という訳すやり方が話題になったということです。私も見ている中で「色んなこと言ってるけれどこれを今自分が何を訳すべきで、訳すべきではないのか」というのを鞠子さんは常に考えていたんだと思います。要は、その一言を訳すことで虎永様のご機嫌を損ねたり、誤解を与えたり、国益にならないと思うことは訳さない。そして途中からはブラックソーンのすぐ感情的になったり、カっとなったり、日本の文化にそぐわない言動をある意味守りたいと思う気持ちもあり忖度してポルトガル語(劇中は英語)に訳したりして双方に損失のないような役割を務めていました。
この様子を見ていると、chat GPTなど多くの技術が通訳や翻訳というところにも介入していますが、やはり通訳は人間力に左右する部分が大きいと認めざるを得ないなと思うんです、特に外交官みたいな役を担わないといけないある意味鞠子様みたいなポジションの逐次役は頭が良くないといけないですよね。余計なことはスルーして必要なことを訳すこと。いきなり独学で日本から出たことがない彼女がここまで理解してやり遂げるって個人的には難しすぎるやろって思うんですけどね。
最近、英語ができるようになりたい!というか、できて当たり前だよね!みたいな教育風潮が日本でも広がってきていて、とにもかくにも英語みたいなところがあるんですけど、英語ができるって何なんだろうねって私的には思うんですよね。例えばトイック満点でも全然ビジネスで使えない、海外の人と意思疎通ができないみたいな人は多くいて、でも日本では英語ができる人になれる。逆に全然そういった勉学系の文法はてんでダメなのだけれど、海外の文化に興味関心を持ち相手の文化や風習を学んでいてコミュニケーションを図るときに最大の配慮をもって双方に利益をもたらせるような関係性を築ける人もいます。これは海外に住んでいたから!とかあまり関係がなくて、自分が人としてどれだけ広い目線を持ってどちらかに偏り過ぎずにリベラルに物事を考えられるかが大切なんだと感じさせられる部分でもあります。海外に行かないとこの感覚は得られるものでも必ずしもなく、普段の小さなことからこういった感覚は養えるんですよね。子どもを見ていても思うんです「私はこれしたいの、でも〇〇ちゃんはこれ嫌だって、泣いちゃうからしない」とか言えちゃう子もいれば「だって!私はこうしたいのに〇〇ちゃんが嫌だっていう!」って言っちゃう子もいたりしません?同じことなのに表現するときに見える範囲が確実に4歳くらいから違ったりする。この感覚があるかないか、それを持っているか持っていないかで多文化の取り入れ方、自分の中の消化の仕方ってだいぶ変わるんだよねと。鞠子さまの生い立ちをみたり、訳し方をみたり、セリフを考えた人たちのことに思いをはせたりして見てみるとSHOGUNって結構奥がふかいなー!と思ったりしました。
是非みなさんも見てみてください!
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