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正直、小説を書くのが辛いんだわ。

最近思う。人間って、何かを始めるよりも、何かを終わらせる方が、ずっと難しい。


どうして私が小説を書きたくないのか


小説を書かなくなってから随分日が経つ。

正直、自分に文の才能がないのは分かっていた。

昔から作文やエッセイなど、自分の体験に基づいたことは割と簡単に、上手く書けるタイプの子供だった。

しかし小説になると、私は自分の力を全く発揮できなくなってしまう。


作文やエッセイは自分の体験したことを書く。

一方で小説は、登場人物達1人1人が生きていなければいけない。

それこそ、小説というのは簡単に言えば人間関係だ。人間関係に始まり、人間関係に終わる。

谷川俊太郎さんがインタビューされた時にこんなことを言っていた。

「自分は詩でいいんです。よく「小説も書かないのか」って聞かれるんですけど、小説って人間関係じゃないですか、すべてが。そういうのはもう現実世界で充分」


こんなことを言うと、20歳で気に障ることを言う小童だなと思う人が多いかもしれないが、多分私はそこら辺の大人よりも結構色んなことを感じてきたし、深く考える機会も多かったと思う。

一つ一つのことを丁寧に掬い上げて、自分1人で議論し、ある時は友人と意見を交換し合った。だから、そんな人生経験が豊富な自分だったら、小説はわりと簡単に描けるんじゃないかと思っていた。

小学生の時から国語の点数はほぼ百点で、塾の全国テストでも何も勉強していなくても結構な上位だった。逆に言えば、こんなに国語の点数がいい私が小説を書けない訳がないと思っていた。

しかし、結局、書けなかった。


嫌だと感じることを続けるのに、意味はあるか?


私は別に小説のことが嫌いではない。もし自分が小説家として生きていけるんだったら、多分それ以上に幸せなことはあんまりないと思う。それぐらい、小説家になって毎日文字の渦に揉まれて、20×20の波に溺れる日々を夢見ていた。

しかし、実際自分には小説の才能がないことを知った。

どちらかというと自分はダンスをしたり、音楽を作ったり、歌ったり、絵を描いたりする方が才能を与えられていると知ってしまった。

才能があることは確かにありがたいことだ。神様に感謝するべきだろう。


でも、いらない才能を貰っても、嬉しくない。


これは贅沢な思いですか?貧相な心ですか?

でも神様。それは私の求めているものとは違うんです。私が本当に欲しいのは、小説を紡ぎ出す才能なのです。

この世の全てが才能で回っているとは思いません。才能に勝る努力があることも知っています。最初から全てができることが最善だとも思っていません。

しかし、神様。苦しいのです。

自分が大好きな人に自分が嫌われている時の気持ちなのです。

愛されたくない人から愛されることなんてどうでもいいのです。愛されたい人から愛されるほうが十分に価値があるのです。

インプットが足りないからなのかと思っても、特別小説を読むこともしません。毎日書けばいいとわかっているのに、こうして自分の気持ちを書きなぐるような文章ばかり生産してしまう自分。


いっそ諦めてしまえば楽だ。そんなことわかってるに決まってるだろ馬鹿が。


いっそ小説に出会う前の自分に戻りたいと思う。

小説の衝撃と破壊と美しささえ知らなければ、自分はこんなに辛くならなかったのにと思う。

実はこういう思いを持ったのは今回だけではない。

ダンスで海外を目指していた時も全く同じ思いになったことがある。

ただのうつ病の落ち込みと違うところは、芸術の苦しみとは、ある意味、執着が絡んでいること。

そして同時に、うつ病のようにただ底辺をさまようわけではなく、苦しみと喜びが同時にやってきたり、交互にやってきたり、突然崖の下に突き落とされたり、突然喜びを見い出したりすることである。

そして一番辛いのはこれを自分が諦めるべきなのか、それとも続けた先に光がやってくるのか、それはまたいつなのか、全く自分では知れないことである。


ああ、今日も、それでも書くんだけどね。



これは昔に書いたものです。

新作はまったく書けてない。


でも、書くしかない、のか……?


(?)


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(?     …………           )




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