力の不均衡のある人間関係はそもそも健全じゃない、という話
生きづらさについて、ぽつぽつと発信させていただいているイラストレーターの松峰です。
これまで何度か記事にしてきた『毒親』や『モラハラ』について、書いていくうちに、ある一つの共通点が見えてきました。それは、いずれも『その成り立ちに力の不均衡が存在する』ということです。
今回は『力の不均衡』という視点で、生きづらさについて考えてみたいと思います。
不健全な人間関係を生む『力の不均衡』
力の均衡、「パワーバランス」が保たれているとき、人は対等です。
議論や喧嘩をするときもこれは同じで、お互いの立場が対等だからこそ、人は自分の意見をぶつけ、また人の意見を聞くことができます。
ですが、一方が一方をコントロールし、支配しようとするとき、人は対等ではなくなります。
下に見られた一方の気持ちは無視され、尊重されません。
これが「不健全な人間関係」です。
毒親の「不均衡」―――『条件付きの愛』
そもそも『親』とは、子供に対して、絶対的な権力を持つ存在です。
親なしでは、あるいは親に当たる存在の庇護がなければ、子は生存できません。だから、親の言うことを聞きます。
つまり親の言動は、たとえそのつもりがなくても、つよい強制力があるということです。
そして、生まれてきた子供が最初に触れる社会が、家族です。
親の言動を基本として、人間関係を学んでいきます。
この時に学んだ人間関係の基本は、学校などの社会に出るよりも先に、強固に子どもの価値観を形作ります。
このとき、親が『無条件の愛』で育てるか、『有償の愛』で育てるかが、普通親と毒親の分かれ道になります。
普通親は、子供の気持ちを考えます。
子どもが「なぜそうしたのか」を考え、子どもの考えを尊重します。
悪いことをしても、それに至った過程と考えを聞き、なぜそれが悪いことなのか、理由をきちんと伝えます。
そして「どんなあなたでも受け入れる」と言動で伝えます。
たとえ不登校になろうと、家庭が安全基地になる。どんな進路を選んでも、応援してくれる。
絶対的な存在である『親』が言うことだから、子どもにとってそれは間違いなく、どんなときも受け入れてもらえるというメッセージになります。
そうすると子どもは、「一人の人間としてみてもらえている、向き合ってもらえる」と感じ「私は愛されている」という実感を得ます。
これらの過程を経て、『親子であろうと人は対等だ』と学んでいきます。
毒親は、子供を思い通りにコントロールします。子どもの気持ちより、親の都合が優先されます。
例えば、口では「あなたの好きにしていいよ」といいながら、結局子供の進路ややることをコントロールする。
いい成績を取らないと褒めてもらえない。
子どもの選択への不満を、不機嫌やため息などの態度で示す。
不登校になったり、親の意向と違う進路を伝えたときに『おばあちゃんになんて報告したらいいの』『恥ずかしくて近所を歩けない』『あそこの〇〇さんはあの大学、あの会社に入ったんですって』『〇〇さんのお子さんは結婚して、もうお孫さんがいるそうよ』というなどして、子どもの気持ちや決心より、世間体を優先する。
やりたいことと違うことをさせられても、「あなたのため」と言われ、子どもは何も言えなくなる。
これらを繰り返していくうちに、世間一般に悪いことだけではなく、「親の意向に従わないことも悪いこと」になります。
たとえ言葉で示さなくても、「親という存在が持つ強制力」がはたらいているため、子どもの選択より親の意向が優先されるというメッセージになります。
子どもは、「親の理想通りでなければ受け入てもらえない、私の思いはいつも無視される、一人の人間として尊重してもらえない」と感じ、「愛されていないのでは」と思ってしまいます。
これまでも何度も述べていますが、人をコントロールしようとすることは、力の不均衡であり、自他境界の不全です。
相手の気持ちや存在を尊重していないということです。
そして、尊重されなかった子どもは、「どうせわかってくれない」と思ったり、自己肯定感が低くなったりして、生きづらさを抱えてしまうのです。
ではなぜ毒親は、このような言動をするのか。
それは「親自身がが安心するため」です。
「子供がどう感じているか」「子供はどうしたいと思っているか」とは考えず、「子供がこうなれば親は安心」という、あくまで親の都合でしかありません。
手のかからない「いい子」でいてほしい。
ちゃんと学校に行ってほしい。
私がかなえられなかった夢を叶えてほしい。
うちの家柄や経済状況に合わせた進路に進ませたい。
いい大学や会社に入ってくれないと世間体が悪い。安心させてほしい。
これらは親の都合でしかありません。
結局は「親が不安要素をなくして安心するため」でしかないのです。
もちろん、家が苦しく希望をかなえてあげられない、ということもあるでしょう。
ですが「どうしてそれを選んだのか」「どう考えているのか」を聞いて、その考えを肯定し、そのうえできちんと説明することはできます。
ただ否定されるだけでは、自分のする選択は悪いこと、自分の気持ちは尊重されない、抑えなければと思ってしまいます。
「子どもの気持ちを尊重する」という視点が抜けている限り、子どもは親の言動を、自身の意思や存在への否定的なメッセージとして受け取ってしまうのです。
いじめ・モラハラの「不均衡」―――『精神的なコントロール・支配』
いじめやモラハラは、相手にダメージを与えることを目的とした加害行為です。
特にモラハラは、相手を支配下に置き、思い通りにコントロールしようとします。
「嫌だ」「やめて」と言われたことを、わざとやる。
大切にしているものを、壊したり、人質に取って脅したりする。
いう通りにしないと不機嫌になる。
言われていなくても、ちゃんと察して動かないと不機嫌になったり怒ったりする。
このようなことを繰り返していくうちに、逃げ場がなくなり、相手の手口に嵌っている限りは、「相手の言うとおりにする」以外の選択肢がなくなってしまいます。
これは、相手の都合や気持ちの存在をわかっていない、あるいは無視している、すべてが自分の思い通りにならないと気が済まない、要するに自他境界を引いていない人間の言動なのです。
そして、身分の違いなどなく、上司と部下でもないのに、上下関係、力の不均衡があるということが問題です。(職場など明確に力関係のある場でのハラスメントはパワハラであり、また別の問題です。)
家族、とくに夫婦などは、本来対等な存在です。お互いに思いやり、ときには意見を言い合ってすり合わせます。
法的な関係のない彼氏彼女や、友達同士、まして他人であればなおさら、そこに上下関係など存在しません。
ですがモラハラをする人は、そこに上下関係をつくり出します。
言葉や態度で追い詰め、相手を下に置こうとします。
奴隷制などない現代において、いかにこれが異様なことであるか、わかると思います。
された側が「断ったら、いうとおりにしなかったら相手が不機嫌になるかも」と考えること自体、支配やコントロールを受けた、不健全な人間関係なのです。
それに気づいたのは、恥ずかしながらつい最近のことでした。
人はみな対等である、という視点を持とう
人のことを尊重できていれば、力の不均衡は起こりません。
相手を見下しているから、「相手に対してそういうことをしてもいい」と心のどこかで思っているから、起こるのです。
人は時にわがままを言うこともあります。しかしそれは、「自分はこうしたい、そのために行動したい」ということであり、時にはぶつかりながらも、相手の気持ちや都合とも折り合いがつけられます。「自分は変わりたくない、周りを動かしたい、相手が私に合わせろ」ということとは違います。
相手を尊重しない人にそれをわからせることは、残念ながらなかなか難しいです。
ですが、「人は対等である」と知ることは、自分の心身を守ることに繋がります。
これまでそういう人たちの影響を受けてきた方は、自分が置かれていた環境について客観視し、通常の環境ではなかったのだ、不健全な関係性の中にいたのだ、ということを知ることができます。自分は尊重される存在だ、と改めて認識できれば、自己肯定感の改善につながります。自分はそういうことをしないように、と気をつけることもできます。相手のことも尊重するように意識できます。
また、知識があれば、そういう人間に遭遇した時、察して離れることができます。
自分で健全な人間関係を選ぶことができるのです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
誰もが、健全な人間関係の中で安心して過ごせる日々を、願ってやみません。
心がしんどい時にいつも読んでいる本
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私の絵のメイキングを掲載して頂いた技法書
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