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私が作品を作るのではなく、作品が私を作っていく。

アーティストとして活動を始めるようになってから、「私」と「作品」の関係について考えてきた。一般には、「私=創造する人」であり、「作品=創造されるもの」と理解されている(便宜上、「私」と書くと一人のように見えるが、複数の場合も含む)。

作品作りを始めた当初は、「私」よりも前に、「作品」が存在する感覚だった。「私を通して、生まれようとしているもの = 作品」の声を聞き、「私」が生まれることをサポートする感覚に近かった。この頃は、「作品」とすらよばず、それを一つの生命体のように捉え、「彼女」と呼んでいた。

一方、そのスピリチュアルな感覚が薄れ、やはり人間の意図や願いが形になっているのかもしれない、と考えた時期もある。「私」が「作品」を創造している、という関係だ。元々持っていたスピリチュアルな感性は、本来「何の意味もない単なるモノ(=作品)」に対し、「私」が勝手に解釈(意味性や神秘性)をもたせていただけかもしれない、と捉え直していた。

このどちらが正しいのか、わからない。一生わからないのだろう。ただ、より強くなってきた感覚がある。それは、「私が作品を作っているようで、作品が私を作っている」という感覚だ。

具体的には、ここ最近、靴が嫌で嫌でしょうがなくなってきた。

今、"connecting" という、人間の身体と自然(大地、木々や森、川や海)の繋がりを科学で捉え、その繋がりを身体的に体験する作品を作っている。その中で、自分自身の「繋がり」の感覚が大幅にアップデートされてしまった。

結果、今まで何とも思っていなかった靴が、自分と大地、自分と地球との繋がりをとても阻害させてしまっているという感覚を強く持つようになった。今日の朝も、近所の山と海を軽くランニングしたが、最後ずっと裸足だった。裸足だと感じる幸せ感や繋がり感が、靴を履くと失われてしまう。

恐らく、この感覚も近い将来落ち着いてくる。でも、事実として感覚は変わってしまった。つまり、「作品」が「私=過去とは違う私」を作っているのだ。

ただこれも極端な考え方かもしれない。「私」という存在がいた時に、何らかの行動に向かわせる源泉(意図や好奇心、気になることなど)があり、そのエネルギーが、「作品」という現実(=質量)を生み出す。

「作品」は、質量を持った瞬間、「私」と切り離され、「私」を超えていく。「私」の思考の外にあり、その「作品」を体験すると、その「作品」自体が持っている特性や個性に、「私」が引っ張られていく。そうして、「作品」が「私」を形作っていく。導かれる、引っ張られる、といってもいい。そうして、更に新しい気になることや疑問が湧き、それが何らかの行動につながる。結果、「私」が「作品」の形を変えていく。

このように、「私」と「作品」の関係とは、球技のラリーのように、互いが互いに影響しあう関係であり、その結果として、その間に生まれてくる何かが、最終的な「作品」と呼ばれているのかもしれない。

これが、今僕が考えている、「私」と「作品」の関係だ。ちなみに、この投稿で一番言いたかったのは、「作品が、私を作っていく。」とは、「作品」が「私」を未知なる世界に連れて行ってくれる、冒険の書のようなもので、本当に幸せな体験だ、ということだった。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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