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黄色い紡錘形の必然性

最近、毎日30分以上は読書するようにしている。あえて時間を決めて習慣化しようと思ったのは、忙しくなるとしなくなってしまうからである。もともと読書には全く抵抗はないが、目標時間を短くすることで、気軽に始める&継続することができると思う。少なくとも、今の僕はそうだ。

最近は、青空文庫をよく読んでいる。
過去の名作を無料で読むことができて、良い。

最近、梶井基次郎の「檸檬」を読んだ。今まで、国語や日本史の授業で名前を聞いたことはあったが、実際に読んだことはなかった。
文学は、国語の教科書で読んだ「こころ」や「舞姫」のように、てっきり長いものだと思っていた。

読み始めると、15分くらいで読むことができた。しかも、内容もとても良くて、感動した。

あらすじ、wikipediaから引用。

「えたいの知れない不吉な塊」が「私」の心を始終圧えつけていた。それは肺尖カタルや神経衰弱や借金のせいばかりではなく、いけないのはその不吉な塊だと「私」は考える。好きな音楽や詩にも癒されず、よく通っていた文具書店の丸善も、借金取りに追われる「私」には重苦しい場所に変化していた。友人の下宿を転々とする焦燥の日々のある朝、「私」は京都の街から街、裏通りを当てもなくさまよい歩いた。
ふと、前から気に入っていた寺町通の果物屋の前で「私」は足を止め、美しく積まれた果物や野菜を眺めた。珍しく「私」の好きなレモンが並べてあった。「私」はレモンを一つ買った。始終「私」の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるみ、「私」は街の上で非常に幸福であった。「私」は久しぶりに丸善に立ち寄ってみた。しかし憂鬱がまた立ちこめて来て、画本の棚から本を出すのにも力が要った。次から次へと画集を見ても憂鬱な気持は晴れず、積み上げた画集をぼんやり眺めた。「私」はレモンを思い出し、そこに置いてみた。「私」にまた先ほどの軽やかな昂奮が戻ってきた。見わたすと、そのレモンイエローはガチャガチャした本の色の階調をひっそりと紡錘形の中へ吸収してしまい、カーンと冴えかえっていた。「私」はそれをそのままにして、なに喰くわぬ顔をして外へ出ていくアイデアを思いついた。レモンを爆弾に見立てた「私」は、すたすたと店から出て、木っ端微塵に大爆発する丸善を愉快に想像しながら、京極(新京極通)を下っていった。

まず冒頭を読んだとき、「この先どんな物語になるのだろう」と小説に引き込まれた。そして、心の隙間を埋めるものを探し求めた彼は、偶然立ち寄った丸善で黄色い紡錘形の果物に出会う。

これは純文学だからなのか、文章は基本的に彼の思考が書かれている。自分を客観視して評価するような、内省的な記述が主で、文学的な美しい表現もあった。

例えば、
私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

どこか遠くに行きたいという願望を、自分の好きな見すぼらさいくも美しい風景に重ねているのだ。

その他にも、好きなとこはたくさんあった。

本作において、なんといっても「檸檬」が象徴的に登場する。本作の中での世界観、コンテキストの中で、なぜ檸檬であったのか。
それは、当時としてあまり身近でなかった、黄色い紡錘形の果物という属性がよかったのかもしれない。

もしこれがリンゴやバナナだったら、評価は変わったのであろうか。

檸檬は、単体で見れば食べ物というより、飾り物に近い。「檸檬」を選んだ彼の感性は、どのようにしたら身につけられるのだろう。

今の時代、今の僕にとっての「檸檬」は何なのだろう。また、今の僕を俯瞰して見て物語にするとしたら、どんな物語になるのだろう。

きっとつまらない物語になるだろうが、彼が書けば、きっとおもしろいものになる。

このアナロジーの発散が、思考の大好きなところだ。


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