見出し画像

当たり前のことを言われて生まれる感情

最近、資格取得に向けて勉強をしている。

資格を持っていることで転職市場で大幅に有利になることはないが、僕の欲しい資格には独占業務があるため、単純に仕事のために必要なものだ。

その勉強は基本的に一人でするのだが、たまに入社当初にお世話になった現場あがりの先輩と勉強をしている。

僕は大学・大学院まで出ていて基本がある程度できているため、資格勉強は一つ難しいものを受ける。したがって、基本的には僕が先生のような形で勉強会は進む。

その先輩が最近ビジネス書を読み始めた。
その人は良くも悪くも現場型人間で、これまでの経験から基本的に判断し、一般的な議論や学問的な議論はめっぽう苦手な人間だ。

これまで本もあまり読んでいなかったためか、ビジネス書にとても感動していた。

著者は、樺沢紫苑という方で多少ビジネス書を読んだことがある方なら必ず知っているような人だ。精神科医で、ブログやyoutubeもやっていて、積極的に活動されている印象だ。

ただ、僕はこの方の著書はあまり好きではない。
理由は、簡単に言えば、内容が表面的で当たり前のことばかり書いてあるからだ。あくまで主観だが。
それを脳科学、医学を用いてサポートを加えて説得力を持たせ、うまくまとめて本をたくさん出している感じ。

話を戻すと、
その先輩は、本を一つ一つノートに書いて勉強をしていた。

僕はまず、その姿を見たときに驚いた。
ビジネス書にそんなことをしたことないし、その内容で感動していることにも。その場面を見て、改めて自分のバックグラウンドの価値を実感したのだが、その先輩の姿勢自体は見習うべきものだと勉強になった。
自分にとって有益かどうかだけで判断し、有益と判断すれば、どんなに泥臭くても本気で取り組むところ。忘れがちになるところだ。

そこまでは良かったが、最近はその雑学を自慢げに語るようになってきたのだ。

語りたくなる気持ちもわかるが、彼には一旦考えてほしい。
僕はそのあたりの本は大学時代に読みあさって知っているし、多くの情報を取捨選択した結果、今の自分ができている。その経験がありつつも言動として示さないのは、単純にかっこ悪いというのと、失礼にもあたると感じているからだ。
彼には、僕からの視点を想像しなかったのだろうか。

その彼の言動を聞くたびに、僕は「知ってるなぁ」と思い、なんとも言えない気持ちになる。その気持ちの割合は、イライラ30%、反面教師にしよう30%、一人で勉強したら良かった30%って感じだ。残りの10%はそれらの感情が相まって生まれる、複雑な感情が占めている。

当たり前のことを言われると、不快ににある原因。
それは2つあるような気がしていて、1つは、自分ができていないような錯覚になること、2つ目は、その行動から推測されるメタ的な考察だ。

1つ目は、子供の頃のよく使われる事例を引用すると、
今からやろうと思っていることを先に親に言われるとイライラする、現象と似ている。いや、ほぼ同じといってよい。

2つ目は、少しメタ的な視点だ。
相手がわざわざ当たり前のことを言ってくる理由は、相手が自分のことを侮っていることを除けば、その内容が目新しくて伝えたいと感じているからだと推測できる。つまり、その内容ですら目新しい知識や思考しかなかった、ということであり、その推測にたどり着いた途端、「自分はこの人から学ぶことはあるのだろうか」「自分の方が知っているな」という感情になる。

当たり前のことを言うということは、瞬間的にこのような歪さを与えてしまうということを忘れてはいけない。
自分にとって価値があるかどうかではなく、常に相手にとって価値があるかどうかという視点で、自分の言動を選択していこう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?