見出し画像

「人間かどうか」という分岐点の先に

人間であるかどうかというのは、僕たちの判断に大きな影響を与える。

小学校の『総合』の授業では、人間同士のコミュニケーションの基礎になるルールを学ぶ。
「自分がされて嫌なことは、他の人にしてはいけない」
「悪いことをしたら謝る」

などというのは、当事者が人間であることが前提になっている。

このような個別具体的なルールは、憲法の中の「絶対的に平等な権利がすべての人間に与えられいる」という考えを背景にしている。

したがって、人を貶めたり、人を殺したり、権利を奪いような行為は法律で罰せられる。これが人間社会のルールである。

人間社会におけるマイノリティである、そのほかの動物についてはどうか。
動物愛護法に基づいて処罰されるが、その罪の重さは軽い。
「権利を奪ったことに対する罰」が刑罰なのだとすれば、人間より動物の命の方が軽いということになる。

そのように考えれば、虫の命はもっと軽い。

つまり、今の社会は命の平等は前提になっていないということだ。
ただこれに関しては、僕たち人間は感謝をしないといけない。社会を人間中心に構築してくれた先人たちにのおかげで、僕たちは便利な暮らしができているからだ。

...

対外戦争に勝利した人間は、見にくい内部争いを始める。
人間の中で、貶める対象を探すのだ。

社会は、マジョリティにとって便利なように構築されるべきだ。
この考え方は、正しいと思う。むしろ、それしかないと思う。しかし、このような社会では、マイノリティは異分子として、扱いにくいものとして処理される。このようなことはいけない。

なぜなら、人間の権利は絶対的に平等だからである。

このように、人間であるかどうかで僕たちの判断基準は変わる。

僕は擬人化ゲームが好きでよくやっている。

城娘プロジェクトやアズールレーンもスマホにインストールして、たまに開いている。馬娘をやっている。しかし、刀剣乱舞はやっていない。

ここから考えると、僕は擬人化ゲームが好きというよりも、美少女ゲームが好きなのでは、と思われるかもしれないが、そこは誤解しないでもらいたい。男性向けに作られるゲームには必然的に美少女が出てくるだけだ。

好きな理由は、現実との繋がりを感じられることだ。擬人化ゲームでは、確実の実在したものや動物がモチーフになっており、その名前も使われる。ゲーム・アニメが完全な虚構ではなくなり、現実と接点を持つ。その感覚が好きだ。
キャラクターやストーリーも、事実をオマージュして作られ、とても面白い。

でも、もう一つ理由があるのではないかと考えている。このような回りくどい言い方をするのは、これは僕が認知することが難しいもので、無意識的な現象を利用していると思っているからだ。

それは、人間化することで人の気持ちを大きく動かせる、ということ。

人間の中にある思いやりや倫理観、愛、憎悪、などは、対象が人間であることが前提になっている。だから、僕たちは犬や猫が殺されても、感情移入はしにくいし、「かわいいそう」「理不尽だ」といった、哀れみや倫理的な判断しかできない。

人間社会の大原則を、擬人化ゲームは上手く利用しているのだ。

逆に言えば、「擬モノ化」「脱擬人化」することで、どんな悲惨なことも、無機的で無感動なモノになるだろう。

個人的に、人間の個性をモノにどのような収斂されるのか。
ここが一番気になっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?