猿でも分かる「プリン学」のすゝめ
卵に牛乳、そして砂糖。香り付けにバニラビーンズや、時には趣向を変えてラム酒などを加えてみるのも、素晴らしい。
最少たった三つの素材から生み出されるにしては、あまりに背徳的で蠱惑的な美味しさを身に宿す至高の甘味──「プリン」。
器の上で泰然と鎮座する姿はまるで雄大な山岳を思わせ、美しく山頂付近を彩るカラメルソースは、山肌に降り積もった雪が夕闇の仄暗さをその身に宿したかのように錯覚させる。
その幻想的な光景をスプーンに乗せて小さく切り取り口に運べば、容易く崩れながらも確かな食感が舌を柔らかく押し返す。どこまでも滑らかな舌触りに導かれるようにして広がるのは、優しい甘さと程好い苦み。
ただ味覚のみならず、視覚と触覚までをも堪能させてくれた後には、卵と牛乳の豊潤な香りに混ざり、バニラビーンズやラム酒、あるいは何か別の官能的な香りが鼻腔を穏やかに駆け抜け、嗅覚だって楽しませてくれることだろう。
もしカラメルの表面が軽く固まっていたならば、ぱりぱりと小気味よく割れる音が、聴覚さえも心地よく刺激してくれるはずだ。
もしかすると、人類史における最大の偉業とは、「卵と牛乳と砂糖を良い感じに混ぜ合わせてから加熱すると美味しくなる」という原理原則を発見したこと、なのかもしれない。
▷ 世界の調和を乱した「とろけるプリン」
しかし、そんな人類の英知の結晶とも言えるプリンの世界において昨今、不断の努力で築き上げられてきた平和を根底から打ち崩すような、実に度し難い変化が起こっている。──そう、「とろけるプリン」の台頭だ。
奴らは世に産み落とされるや否や、瞬く間に在来のプリンたちを迫害し始めると、驚異的な速度で彼らから安住の地を奪い去ってしまった。
そうして、新興勢力による蹂躙の無分別さに世間が気が付いた時には、時すでに遅し。
今やコンビニやスーパーマーケットの冷菓コーナーに我が物顔で鎮座し、あまつさえスイーツショップの一角にさえ「当店のこだわりスイーツ」面をして居直るような始末だ。
かたや、無情にも住処を追いやられてしまった土着のプリンたちは、レトロさを売りにする喫茶店や、現在の体制に反旗を翻す一部の気骨のある飲食店など、ごく限定的な環境下で身を寄せ合って細々と生き永らえているような有様なのだから、「とろけるプリン」の業はどこまでも深い。
人類は、「宗教」や「人種」といった相対的で曖昧な基準を根拠に支配と迫害の歴史を歩んできた訳だが、まさか「プリン」でも同じ過ちを繰り返すことになろうとは、一体誰が予測できたというのだろうか。
▷ プリンにとっての「アイデンティティ」とは?
だが、少し待ってほしい。そもそも、日本で一般的に慣れ親しまれている「プリン」の正式名称は「カスタードプディング(custard pudding)」なのだが、「とろけるプリン」は本当に「プリン」なのだろうか?
広大なインターネットの海に浮かぶ膨大な知識を紐解き、改めてその定義を調べてみたところ、「カスタードプディング」に共通する定義として、以下二つの要素が浮かび上がってきた。
1.カスタード(卵と牛乳、砂糖などを混ぜ合わせたもの)を用いた洋菓子
2.蒸すか蒸し焼きにし、カスタードを加熱して凝固させたもの
もしかすると、我々は今、人類史に刻まれるべき恐ろしい欺瞞を目の当たりにしているのかもしれない。
一つ目の要素については、問題なく「とろけるプリン」も満たしているため、敢えてこれ以上何かに言及する必要はないだろう。
問題は、二つ目の要素に含まれている「カスタードを加熱して凝固させたもの」という “絶妙” な条件の存在だ。
何が絶妙なのかと言えば、「凝固の程度についてまでは定義されていない」という点に他ならない。
この曖昧な条件設定こそが、「カスタードを加熱して(多少なりとも)凝固させたので、これは間違いなくカスタードプディングです」という詐欺師の文法まがいの詭弁を、奴らにすまし顔で宣わせることを許してしまっているのだ。
たとえその完成形が、どれだけ流動食じみたドロドロの状態であろうとも、連中の図太い神経が一ミリたりとも揺れるようなことはあり得ない。
まさに、黒か白かを決めようとする高潔な試みの傍らで、論理の抜け穴を巧みに衝いて成立した社会的にも人道的にも “灰色” な存在。それこそが「とろけるプリン」の正体であり、唾棄すべき本質なのだ。
ちなみに、プリン界隈においては、いわゆる「プッ〇ンプリン」に代表されるような「ケミカルプリン」も根強い人気を誇り、「とろけるプリン」に負けず劣らずの勢力図を描いている。
だが、ゼラチンなどのゲル化剤で卵液を凝固させる「ケミカルプリン」は、分類としては「ゼリー」や「ババロア」に近く、「カスタードプディング」とは大いに異なる文化を形成しており、ジャンルの棲み分けも割かし上手にできていると言えるだろう。
むしろ、幼児や学生層を中心に世代を問わない幅広い支持層を持ち、比較的に安価で手に入る「ケミカルプリン」は、今も昔もプリン文化の普及における最大の功労者だと言えるかもしれない。
その労を思えばこそ、この場を借りて御礼を申し上げることも決して吝かでない。「ケミカルプリン」よ、ありがとう。
▷ 自己の定義をもとろけさせる強烈な「矛盾」
話を元に戻すが、定義の網目を掻い潜り、人々に危機感を抱かせることなく急速に版図を広げた挙句、最終的に自身の正統性まで強く打ち立ててみせたその手腕は、確かに思わず「とろける」ほどに見事だったと言える。
だが、たった一つ。ただ一つだけ、完璧に思われた犯行の中で「致命的なミス」を犯してしまっていたことを、迂闊にも奴らは見落としてしまっていた。
「とろけるプリン」──最初にそう名乗ってしまったことこそが、すべての間違いの始まりだったのだ。
「フラン」や「ブディーノ」のような英語圏以外での呼び名や、あるいはいっそプリンとは全く掛け離れた新たな名前を付けようとしなかったのは、慢心あるいは油断の “賜物” だと揶揄されても文句は言えないだろう。
そもそもの話として、「プリン(プディング)」の発祥は、16世紀頃にイギリスの船乗りたちが、航海中という食料調達の難しい環境下で余った食材を無駄にしないよう、「溶いた卵に野菜や肉の切れ端などを混ぜ合わせて、一緒に蒸して固めて作った料理」にまで遡るとされている。
そして何より、「とろける」という形容詞を、わざわざ言い訳がましく名に冠している時点で「本来のプリンはとろけるものではない」、あるいは「しっかりと固められた状態こそがプリンのあるべき姿である」ことを、誰でもない自らが痛烈に認めてしまっていることの証左に他ならない。
その意味では、出汁と具材を加えた卵液をしっかりと蒸し固めて作る「茶碗蒸し」の方が、遥かに正しく「プリン」をしているとさえ言えるだろう。
そう、「とろけるプリン」とは、己の中に致命的な自己矛盾を抱えた哀しき存在でもあったのだ。
そう考えると、器に入っていなければ自身の在り方すら定められず、器から零れ出た途端に自己を崩壊させてしまう惰弱な有様も、何とも涙を誘うというものではないか。
▷「固めのプリン」という呪詛の発明
やがて、自身の根幹を揺るがす失策に気が付き焦りを覚えた連中は、失態を挽回せんとばかりに次なる凶行に打って出ることになる。
それこそが、「固めのプリン」という珍妙な言い回しによる悪辣な印象操作だ。
「固めの」という「とろける」の対極に位置する形容詞を悪用することで、人々に「プリンとは本来とろけるように柔らかいもの」という誤った印象を巧妙に刷り込み、土着のプリンに対して「プリンにしては固い食感のもの」という不名誉なレッテルを貼り付けることに成功。
気が付いた時には、「いや、確かに食感は固めなんですけど、僕だって歴としたプリンなんですよ」と、何故か土着のプリンの方が弁明せざるを得ないような歪んだ構図が作り上げられていたのだ。
そうして、まんまと認識のすり替えが上手くいったことに気を良くした奴らは、さらに自身を有利にする印象操作に乗り出す。
それが、「こだわる=とろける」という身の毛もよだつ様な、傲岸不遜の極致とも言える公式の一般化だ。
当然、押し付けられた謎の価値観で「固め」の烙印を押されてしまったプリンにだって、素材にも製法にもこだわっているものは沢山ある。
にもかかわらず、「より滑らかでよりとろけている」ことこそが、より素材や製法にこだわっていることの証であるかのように、あらゆる場所で喧伝してみせたのだ。
その結果については、敢えて言葉にするまでもないだろう。現在の世間の有様こそが、何よりも如実なその「答え」なのだから。
もうここまで来れば、お分かりだろう。「とろけるプリン」の原材料は、卵と牛乳と砂糖などではない。
「虚栄」と「欺瞞」、そして「傲慢」。それらを詭弁で優しく包み込み、生暖かい悪意で蒸して固めてできた “人間の業の煮凝り” のようなものが、「とろけるプリン」なのだ。
▷「とろけるプリン」と「固めのプリン」の百年戦争
この歪な世界の真実を知ってしまった今、我々が取るべき道は二つ残されていると言えるだろう。
一つは、素直に「とろけるプリン」による支配を甘受して、このまま脳までとろけさせながら残りの人生をやり過ごす道。
もう一つは、現在の絶対王政に断固とした拒絶を突き付け、土着のプリンたちの復権と繁栄を目指して、険しく長い闘争の人生に身を投じる道だ。
言うまでもなく、僕は「後者」の道を選びたい。
誰に後ろ指を指されようとも、これからも “とろけないプリン” こそが原点にして至高だと声高に叫び続けるし、理想的な固さと口当たりを実現するプリンのレシピだって、大手を振って研究し続けるつもりだ。
というか、何が「固めのプリン」だろうか。
こちら側からしたら、「とろけるプリン」の方こそ「固まり損ないのカスタードクリーム」だと言うのに。失礼千万にも程がある。
見識ある皆様におかれては、どうか「固めのプリン」などというナンセンスなレッテルに惑わされ、安直で身勝手な流行り廃りの潮流に乗せられた挙句に、本来の「プリン」を「古き良き時代の遺物」であるかのように見誤らないでいただきたい。
群衆が勝手に見向きもしなくなっただけで、「プリン」は常に変わらぬ姿でそこに在り続けていたのだから。
▷「とろけるプリン」との和平の道を探る
だが、極めて口惜しいことに、もはや「とろけるプリン」による支配構造は確固たるものとして完成してしまっており、今さら戦況を覆すことは困難を極める。
好むと好まざるとにかかわらず、その窮状については、揺るがし難い現実として受け入れざるを得ないだろう。
一方で、こうして現状での敗北を素直に認めた今だからこそ出来ること、言えることもあるのだと気付く。
僕は今、この文章を書き殴る傍らで、コンビニで手に入れたプラスチックの容器に入った “固くないプリン” を、小洒落たグラスと酒に見立ててちびちびと煽りつつ、彼らの仮初の勝利に祝杯を捧げている。
だが、悔しさのような気持ちは、不思議と湧き上がってこない。やはり長年にわたり世間で広く支持され続けてきただけあって、味も香りも文句なしに良いからだろうか。
いつもなら下らない自尊心が邪魔をして口に出せないこの気持ちも、今なら何の躊躇いもなく、清々しく胸を張って宣言することができそうだ。
やっぱ、プッチンプ〇ン、クッソうっめぇ。
化学的に量産されたことを一瞬で脳髄に理解させるジャンキーで中毒性のある風味と食感は、もはや芸術の域に達していると言える。子供心をくすぐってやまない底面の “仕掛け” に至っては、まさに天才か悪魔の所業だろう。
もしかすると、「とろけるプリン」と「固めのプリン」による血で血を洗う抗争の歴史に終止符を打つための “鍵” は、どちらの勢力にも属さない孤高の王者「プ〇チンプリン」が握っているのかもしれない。
さておき、およそプリンとは呼び難いものが、プリン界の正統な王位継承者を騙って一国を牛耳る嘆かわしい現状については、「国家転覆罪」にも等しい大罪だと声高に糾弾し続けていく所存だ。
良識ある人類と「とろけるプリン」との苦闘の日々は、まだ幕を開けたばかりに過ぎない。