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退職を告げた日に。

自分に対する今の思いを綴っていこうと思う。
私は物心がついた時からずっと息苦しさ、生きづらさを感じて生きてきた。

きっと家庭環境も関係していると思うが、幼少期から仲間外れにされないよう気を使ってきた。

あの人気者の女の子が好きだと言っていた男の子は、好きになってはいけない。人気少女戦隊アニメのものまねごっこだって、本当はセンターになりたかったけど、言えなかったことを覚えている。

学校に通ってからはそんな自分が嫌で無理に笑って過ごし、知り合いを作りまくった。

今では数人しか連絡を取っていないし、どうしてそんな道化師を演じていたのか自分に聞きたいくらいだ。
 

自信が持てずに生きてきたから、社会人になっても自己肯定感がうまく育めず、仕事はすぐに辞めてきた。
最長でも二年半。私は初対面だけすごく印象がいい。気を使いまくるから。

「根性ありそう」「いつもニコニコしていてすごいね」「人当たりいいよね」。これはよく言われてきた言葉たちだ。

もちろん自分にそんな一面があるのも確かだけれど、そうではない面がある。それも事実。そしてすぐにボロボロと剥がれ落ち、人間関係をリセットするように退職してしまった。


こう綴るととんでもない人間性だ。ただこれが自分だ。何か変えていこうと必死になっていた。ずっともがいてきた。

ポジティブな本や人、言葉に触れて自分を変えようと頑張った。けれど続かず、いつもの自分に戻る。
甘えだと言われたらそれまでだが、それでもなお、ここに生きている。

むしろ生きていてもいいのではないかと少しだけ自分を肯定できるようになってきた。著:いしかわゆき「ポンコツなわたしで、生きていく。ゆるふわ思考で、ほどよく働きほどよく暮らす」この本を読了し、少しだけ生きづらさが軽減されたような気がする。
この自分の性質を活かしていく生き方がきっとある。苦手を無理やり得意にしようともがくのではなく。

私でいえば、ありがたいことに外見が華やかだと言われることが多々あった。接客が向いていると思い込み働き出すと、とんでもない冷や汗をかいて緊張し、夜にはバタンキューだ。

接客業には接客業の良さがあるし人とのかかわりの中で成長することができるのは事実だが、無造作な対人関係がまるで向いていないような。
 
でも、単純作業は向いていない。飽きっぽさが顔を出す。これも困った性質だが、ある程度できるようになると更に違うことを試していきたくなる。

ただ集中力は褒められることがあった。接客業では過集中で顧客をほったらかしにして怒られることもあったが。

おそらくHSPという性質を持っている気がする。ハイリー・センシティブ・パーソンの略で、よく「繊細さん」という言葉を使って表現されることが多々ある。


では何が自分に向いているのか?具体的に考えてみた。ある程度人とかかわることも必要とするが、仕事自体は一人で集中できたほうがいい。そのほうが社会とのかかわりを断絶することなく没頭して打ち込める。

自分のパフォーマンスを思いっきり発揮するにはそれなりの環境が用意されていることが大事だということも知った。


これも、生きてきたからこそ分かったことだと思う。家族や友人、恋人と過ごし職場での人間関係をつくり、少しずつ自分を知ってきた。
最初から器用に生きられたら、こんなに悩むこともなかった。だけどきっと考えて色んなことを試すことすらしなかったと思う。不器用に進んだり後退したりした自分だからこそ納得して今は生きている。そしてこんな風に生きづらさを感じて生きている人の気持ちを、少しは理解することができると思っている。

人は落ち込んでいるとき、眩しいくらいのポジティブな人といるとさらに落ち込むらしい。

私はひたすら前向き思考の恋人がいたことがあるが、その眩しさに自分が霞みそうになったことを覚えている。
悩みを打ち明けると必ず前向きな答えを出してくれ、私の中では思いつかなかったようなヒントをくれた。とてもありがたいことだ。

それでもなぜか、「どうして私はこんな風に生きられないのだろう」と考えてしまう自分も発見した。だれしも前向きに生きていけるわけではないし、ある程度の共感が重要なのだと。

だからといってずっと闇を抱えていても生きづらさが加速していくだけだから、ある程度の息抜きが必要なことも知った。

私には趣味が必要だ。仕事や人間関係のことを忘れて、別に生産性なんてなくてもいいから、世界観に浸れる何か。
飽きっぽい性質があるからコロコロ変えてきたけれど。自分の手で何かを作り出すことをしていると、心が癒される。
こんなことができた、と自分で自分を少しだけ認めてあげられる。

世間一般は「仕事」ができたら優秀、周りに認められるという風習があるが、それだけにすがっていたら身が持たないと思う。

実際私も上司の顔色ばかりを伺い、どうにかこうにか結果を出すことに全力を注いでいた時期があったから。でもそれでは心が満たされなかった。今思うと力の注ぎ先が「他人に認められること」なのだから、自己肯定には繋がらないと分かる。
そして自分には、意味もなく自分を表現する何かが常に必要なのだと再認識した。

 そんなこんなで、今日も自分のまま生きていくのだと思う。



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