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アマテラスはもともと月の神だったという話

今日、アマテラス(天照大神)は太陽神として、様々な媒体で扱われている。しかし色々と漁ってみると月との関連がたくさん出てきて、困惑した。アマテラスは月の神だったのだろうか?そう思いたち調査を開始した。

私は世界中の神話における月の神について調べる機会があり、ついでに日本における月信仰について調べてみたところ、大変興味深い本に出会ったのが全ての発端だった。

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古代日本の月信仰と再生思想」(著:三浦茂久氏)である。

大好きな作品社さんから出版されているなかなかボリューミーな著書であり、内容も底なし沼で読了に3か月かかった上、理解が浅い部分もあり個人的に備忘録としてまとめる。

古代日本における民と月の関わり

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まず月信仰というのはとても歴史が深い。世界的に見ても太陽信仰よりもずっと古くから盛んであり、暦を数えるのも現代では太陽暦が一般的にはなったが、昔は太陰暦を使うのが当たり前であった。(まだ太陰暦を使っている国もある)太陰暦は世界各地の歴史の中で確認されている。

太陰暦では月の満ち欠けに従って、日数を数える。新月から生まれ、麗しい望月へ、そして次第に欠けていく"月を読む"わけである。
この読むというのは古代では数えるという意味で、"月を読む"は日数を数えることだった。

日本でも「神代記」を見ると月神を月読尊(つくよみのこと)と呼んでいて、月を読む=つまり日を数えていたことが分かる。日本においても暦日は月を用いて数えられ、一般的に使われていたのだ。
古代では一日の始まりは午前零時からではなく、夕日が没する時からとし、夜は神が降りる大切な時間であると扱われていたという。(だからお祭りとかも夕方から始まる)

また古代日本では月によって生理を支配されていると考えられ、女性が祭祀に携わることが多かった。特に日本は四方八方を海に囲まれていて、漁業や舟運が盛んなので、潮流や潮汐の影響は重要な要素だった。
つまり民衆の生活文化と月の影響は非常に強く結びついていたということだ。
しかしながら日本の皇祖神は天照大神(アマテラスオオミカミ)で『日本書記』では日神(ひのかみ)とされている。全然月関係ない。『古事記』では神代に日神の記述はないが、「神武記」には神武が日神の子孫となっているらしい。つまり皇族は太陽神の子孫ということになる。それなのに、古代文献に太陽信仰が多く記述されているわけではなくむしろ希薄とのこと。

ではなぜ日本は太陽信仰の道を辿ることになったのか?また根強い月信仰はどこへ行ってしまったのだろう。

『記紀』と『万葉集』の乖離

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当時の月と日本の文化は切っても切り離せない大切な存在であるはずだった。しかし「記紀」(日本書紀と古事記の総称)を見る限り月に関する伝承は散発的でそれほど重要視されていない、と著者は語る。
一方で万葉集を見てみると、全くの逆で月に関する詩が多く詠われているのにも関わらず、日に関しては非常に冷淡であるという。
ではこの『記紀』と『万葉集』の乖離、ギャップが生じるのはなぜなのだろうか。

『万葉集』は『日本書紀』の編纂よりも遅れるが、前半の歌は『日本書紀』に記載された時代やその編纂された時代に詠まれている。
とすると、多くの歌人によって詠われた『万葉集』に問題があるわけではなく、『記紀』の方に王権による作為があったのではないだろうか、と著者は考察している。

確かに『日本書紀』は当時の天皇が命じた国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うというとても政治色の強いものであったとされているので、王権の作為があった可能性も否めないと感じる。

逆に『万葉集』は純粋に当時詠まれていた歌をまとめた文化に忠実な文献であり、こちらの方が信頼度は高く思える。こちらで多くの月の歌が詠われたのなら月信仰がこの頃根強く現存していたと考える方が自然である。

『日』という古代語の解釈

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『日』という言葉は現代でも広く使われている言葉である。
例えば一日(ツイタチ)、二日(フツカ)など様々な形で使われており、これらは太陽信仰から来る語源であると考えられていた。
しかし、実はこれらは月信仰が由来であることも説明されている。

古代では、二日(ふつか)、三日(みっか)で用いられる日(カ)は月や月夜を表す助数詞であり、太陽のことではなかったらしい。

平安時代の日数詞を分析すると、多くのものが-uka(ウカ)という発音で終わっている(二日:フツカ 五日:イツカ 八日:ヨウカ など) 
つまり日(カ)は古くはウカと発音したとのこと。ではウカは一体どこから来ているのか?
なんとその語源は若(ワカ)から転じて用いられるようになったらしい。
月は29.5日ごとに満ち欠けを繰り返し、古代人はそれを月の若返り・再生の象徴として信仰していた。その月の若さを表したのが若(ワカ)である。
で、その若(ワカ)がウカと訛るようになり、ウカはやがてカに変わったのだという。
相当ややこしいがまとめると、

月の若さを表す言葉 若(ワカ)→訛る→ウカと発音するようになる→カに変わる→月を読んで日数を表す言葉としてカが使われるようになる

といった変遷である。

三日月(みかづき)という月を表す言葉にどうして関係のない太陽を表す言葉である『日』が入っているのか個人的に疑問だったが『日』という語源を遡ると納得である。
また一日をヒトカと読まずにツイタチと読む理由も、一日は新月を表すため月が出ておらず月を表す日(カ)が使われなかったとのことらしい。

本来日数を数えるカという言葉には月か月夜を当てはめるべきだったのに、月が日数の意味も持っていたために中国に倣って日を当てはめることになったとのこと。そのことが後世になって、色々と齟齬や誤解を生むきっかけになってしまったと考察している。

古い皇祖神 タカミムスヒは月神

現在の皇祖神はアマテラスオオミカミだが、『日本書紀』神代下の冒頭では高木神(タカミムスヒ)は「皇祖」と記されている。これらを精査すると本来の皇祖神は タカミムスヒであったと考えられている(※他説も多数あり)

このタカミムスヒは一般的には生成を司る穀霊とされ、太陽神的な側面も併せ持っているが、実は月の神であると著者は結論付ける。

高木神の高木というのはツキ(槻)のことであり、これは現在でいうところのケヤキ(欅)を表しているとのこと。
この槻の木は天女の故郷である月に関連し、槻は月の暗喩であるという。
また『日本書紀』の中の顕宗紀にも記述があるように、壱岐島の月神の祖もタカミムスヒであり、これらのことからも月神であってもなんの不思議もないとのこと。(ちなみに壱岐島には月讀神社が現存している)
タカミムスヒの語義である"高くにあって、新生・生成の霊力を持つもの"というのはまさに月のことだろう。

『日本書紀』の皇祖神はアマテラスよりもタカミムスヒに比重があるが、『古事記』になるとタカミムスヒよりもアマテラスに重心が移っていく。
この事実は文武以降に月信仰から太陽信仰へとシフトチェンジしていくことを暗示していると語られている。

長くなったが簡単に言うと、アマテラス以前はタカミムスヒという偉い神様がいて、その別名である高木神の高木は槻のことであり、槻は月の暗喩だった。またアマテラスの台頭によりタカミムスヒの影響力が下がっていった。

アマテラスは月の神説

天照大神(アマテラスオオミカミ)はアマテルの部分の「テル」の未然形に尊敬の助動詞スを付けてアマテラスと読んでいる。よってアマテルの部分の意味を探ることでアマテラスの由来を探っていく。

アマテラス以外で天照(アマテル)と名の付く神は数多く存在している。
それらのほとんどは、全国各地にある天照御魂神社の天照国照彦火明命(ホノアカリ)を祀っていて、多くの有識者によって太陽神であると信じられてきた。
しかしどうやらホノアカリが太陽神であると考えるのは間違っているとのこと。
以下理由をまとめる。

・アマテルは『万葉集』では月を表す常套句で使われていた
・ホノアカリは尾張氏の遠祖とされ、尾張氏は海辺の地域であり、月を読んで舟運や漁業をしてきた海人族の祖神だとかなり違和感がある
・ホノアカリの語源から"月の仄かな明かり"の意味であると解釈できること

これらの理由からホノアカリは太陽神なのではなく、アマテルの意味も月に関連する意味を持つことが分かる。
アマテラスが日神であることから、アマテルの名を持つホノアカリも日神であると考えられてきたが、これもまた成り立たないということになる。

またアマテラスの古い名前は「ヒルメ」といって、ヒルメは糸を延える女や機織女の意味である。古代では織物は光を発することができ、月などに光を与えることができた、つまりアマテラスは月に従える神であると考えられる。

さらにさきほども述べたようにアマテルの意味は『万葉集』では月を表す常套句だった。ヒルメは多くの『神楽歌』などでも月の神とされ、日神ではないと結論付けている。

つまりアマテラスは元はアマテルであり、照る月を表していたが月の神であるヒルメ(機織女)と複合してアマテラスヒルメという神名になり、天武時代に新しい皇祖神になったと考察される。
その頃はおそらくまだ月神として信仰されていたと考えられている。ではなぜアマテラスが月の神から日の神になってしまったのだろうか?

それには仏教が大きく関わることになる。

6世紀頃に日本に伝わったとされる仏教は日本本来の宗教文化である神道と結びつきながら発展していき、ついには国教となることになる。
飛鳥時代の天武天皇の飛鳥浄御原宮(飛鳥は朝の月の意味)や持統天皇の若い時の名前サララ(繰り返すの意味で月を象徴している)などから国教となった頃でさえ月信仰がまだ優勢だったと考えられる。

それ以降、さらに仏教が浸透し、金色の仏像を日常的に拝むようになってきてからアマテラスを仏教にならった『仏身が太陽光を発して燦然と輝く』
姿に変えようという機運が高まったと著者は考察する。
だいたいアマテラスが月神から日神に変わった時期は文武の頃と推定している。

つまるところ、仏教が日本文化に入り込んで、熟成しやがて国民文化になったところで皇祖神であるアマテラスが月神よりも仏教にならった太陽神に変えてしまった方が信仰の象徴として扱いやすく、また同時に廃れていってしまう可能性も排除したのだろうか。

もちろん王権にどのような意図があったのかは当時にしか分からないが、アマテラスになんらかの調整が行われたのは確かで大変興味深い。
ここまで月との関連があることを論証されると元から日の神だとは考えにくく、月信仰から見ても古代から太陽信仰が根付いていたとは思えない。

個人的にはアマテラスオオミカミはもともとは月神だったという説を推したいと思った。(終)



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