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この私の書き方はボツであるがゆえに

ハンガリーへ行くはずが実家暮らし83日目。

谷崎潤一郎の「文章讀本」を読んでいる。
よくもまあこうも本が読めるもんだ。Z世代はお金よりも時間を求めるらしいが、たしかに、時間がなくっちゃ本も読めない。

本の書き方

買った時は気づかなかったんだけど、この「文章讀本」は、本の書き方を記してある。今現在、本の書き方を教えようとする本がたくさん出版されているが、谷崎の時代からこういう本はあったんだなと知る。にしても、どの書き方本よりも面白い。しかも分かりやすい。今現在の書き方本は実用的で読みやすいが、この面白いっていうことを忘れちゃっては、書き方本自体の書き方を問いなおす必要がある。

ペンは箸に同じか

「文章讀本」を読んで、それを実践するには僕は何かが足りない。まず、文章への真剣さが足らない。誰だって箸を持てば飯を食える。けれど品のない食べ方をする人がいるように、持った筆でみんながみんな品がある文章を書けるわけじゃない。しつけやマナーが必要となる。
だが一方では、食いっぷりがいい人っていうのは印象が良い。基本的にがむしゃらに食べているその様が勇ましく好感が持てる。それを見るとき美しさはいらない。魚を骨と身にわけキレイに食べる人も見ていて気持ちがいいが、頭も内臓も、骨まで全てキレイに平らげる人が、皿をペロリとなめたって、箸を使わず手で食べていたって、それは人に驚きと感動を与え得る。

今売れている書き方本を読むことで、箸の使い方が上手くなるのかもしれない。人生は選択の連続だというように、連なる文章もまた、言葉や表現のどれを選択するかによって読後の良し悪しが決まるのかもしれない。上手に良い選択を箸でつまむこと。喉に骨をつまらせないように。それを教えてくれるのかもしれない。


「文章讀本」は、丁寧に箸の使い方、ペンの走らせ方を書いているのでない。
あなたが食べようとしているその魚は、生命だった。そのいのちは生きていた。それを今あなたは食べる。そのいのちはなにか、ということを改めて伝えているように思う。

魚にまつわるエトセトラ
五島列島の小値賀島に1人住みニートをしていたとき、漁師に頼んで漁に出たことがある。深夜。漁船に乗ってからずっと僕はただ嘔吐し続け、寝た。実際は気持ち悪すぎて目を閉じて横になっても眠りにはつけなかった。ただ月や星を身近に感じ、眼前の無人島、野崎島に見える鹿の目の光に見惚れていた。いくつかの漁船同士が少し離れた場所で停留し、トランシーバーで話をしていた。とても下世話な話だったと思う。強い訛りがあって聞き取れなかった。波の音は静かだった。星と、月と、無人島と、鹿と、波に、重なったおじさんたちの下世話な声が愛おしい記憶として、ある。
時は過ぎて僕はドイツの南部、シュツットガルトで板前になったため、魚を捌くことが仕事の一つとなった。シャケ、ヒラメ、ブリ、スズキ、、魚の背びれで指を怪我するとなかなか治らない。今日の魚たちは昨日の魚たちではなかった。ただある程度は昨日と同じように捌く。毎日斬新な捌き方を発明する板前さんはいない。握るだけではなく、煮たり、焼いたりもした。
卸、市場に行って魚を自ら選ぶ日もあったが、基本的には真顔のドイツ人業者が鮮度を保って届けてくれた。今思えばあのドイツ人が笑ったところを見たことがない。発注したはずの魚が度々届かないことがあり口論になった。口論になるほど、僕のドイツ語はあのドイツ人に伝わっていたのだろうか。

最近は釣りを趣味とする友人が増えたように思う。タイのシラチャでクリニックの院長として働き出したとき、僕が元板前だと聞いた釣り人たちが魚を釣ったその足で魚を持ってきてくれた。見たことの、聞いたことのない淡水魚ばかりだったが、捌いて食べてみれば臭みもなく身もふわりとしていた。釣り人たちの呑み会に参加したことがあるが、まるで哲学でも語り合うかのような口ぶりで、仕掛け針と魚との対峙について語っていた。

その書き方はボツである
魚とは、命ある限りどこかで泳いでいて、釣られて死ぬ。死んでから市場で買われ、購買者に捌かれ、消費者に調理され、美食家や健啖家などに食べられる。

「文章讀本」に書いてある"書く秘訣"として、

「言葉や文字で表現できることとできないこととの限界を知り、その限界内に止まることが第一」

とある。
僕は、文章を書くことを、魚を食べることに喩えていたらいつのまにか、魚の一生を書いていた。魚と僕の歴史について書いていた。
魚の食べ方を誰かに伝えたい時に、魚の一生を教える必要など、きっと本来ないのだ。
食べ方、そして書き方を教える際には、それが表現できないその限界点を知り、その限界内に止めること。
けれどその限界点とは一体どこなのか?
魚の食べ方を教える際に、その魚の生命のありがたさを伝え、そこにまつわるストーリーや、関わった人々の一コマを伝える必要性は、本当にないのだろうか?
書き方本は書き方本として、ちゃんとそのギリギリの限界点ラインを攻めた書き方をしているのだろうか?表現を狭めてはいないか?

だが、つまりきっと、これはボツである。
この文章は書き方本には及ばない。
なにより分かりづらいからである。

書き方って本当に、わからない、
このオチに向かっていくつかの選択は切り捨てられて、ここに至る。

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