見出し画像

15 コロナ禍における共同体意識のことなど

先日、「共同体意識」を想起させる出来事があった。Facebookで繋がっている知人の投稿に「何のためにマスクをするんですか?」との問い掛けがあったのだ。投稿者本人がSNS上でトラブルを起こしがちな人である上に、モロモロの小理屈を並べながらもっともらしく語ってはいるものの、文脈そのものが「マスクをしたくない自分に同調して欲しい」との意図が見えるので、ヘタなコメントをすれば要らぬトラブルに巻き込まれかねない。こういった人は、自分を否定する人を容赦なく攻撃する。本来なら取り合わない方が良いのだが、普段コメントをやりとりしている間柄の人でもあり、問いの立て方そのものの間違いに気付かせてあげたい、とのお節介心が働いてしまった。
 
「問いの立て方そのものの間違い」とは、まず1つ目に、社会の状況は、もはやマスクをするしないを云々するフェーズではない、つまり時宜を逸していると言う事。2つ目は、他者へ向ける視点が欠落している事。共同体意識の欠如である。自分がひとりで生きていると思っている。問いをテーブルの上に載せて議論しましょうとの体裁は取っているが、文面は個人的感情の塊りである。マスクを強要するような世間が憎くてしょうがないと言った気持ちに溢れている。まったく、いい大人がしょうがないなあ、と思いつつトラブルを覚悟の上でコメントを残した。お節介にもほどがあるが、一発で先方のパラダイムの転換を促す一言を放ちたい。
 
「私の場合は、<共同体の利益を最大化するために自分には何が出来るか> が基準です」とのコメントをした。少しでも母性のある人なら「どうしてそんなにマスクをしたくないの?ふーんそう、したくないのね」と、はぐらかすことも出来たのかも知れない。結果は、他のコメントには反応していたようだが私のコメントは何事もなくスルーしてくれていた。ホッとした。
 
コロナ禍に対しては政府も打つ手なし、と言うか無策である。それどころか党首選へ向け党内の権力争いの最中だ。草莽崛起を唱えたのは吉田松陰であるが、自分たちで出来る事をしようとの共同体意識がこれほど必要とされている時は無い。震災の時は災害が目に見える形であったために分かり易く、多くの人が結束して東日本を支援した。しかし今回は、目に見えない。さまざまな憶測やデマが飛び交っている。上に挙げたFacebookの知人も混乱の最中なのであろう。彼の気持ちも含めてすべてを受け容れ「自分には何が出来るのか」を問いながら、日々を創り行くのみである。もし共同体について思索を深めたい方がいらっしゃるならば、下記書籍も参考になる。
 
*今週の参考図書
・『日本霊性論』内田 樹, 釈 徹宗  2014年/NHK出版
・『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見 一郎 (著), 古賀 史健 (著)  2013年/ダイヤモンド社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?