その違和感は正当だが一律に「性の商品化」とする理由づけは危険だ——水着撮影会中止騒動への論評

近況:一応「根治」ということで

前回の投稿記事で、8月初めの右鼠蹊部の転移癌の摘出手術が無事終わり、9月下旬にCTを撮って抗がん剤治療を再開するかどうか決める、また、一昨年の左精巣摘出のせいと思われるが男性ホルモンが足りなくなっていることが判明したので、前立腺癌のリスクも検査して、大丈夫となったら、補充注射を始めることになると書きました。
その結果なのですが、一応「根治」ということで、抗がん剤治療は再開しなくていいことになりました。
男性ホルモンについては、前立腺癌のリスクはないとのことで、予定どおり補充注射を始めることになり、早速一回めを打ってもらいました。

前回、手術前に内心、右精巣も取ることになったらこれで癌のことはゴールと感じていたのに、結局取らずにすんだもので、ゴールが伸びた気がして気持ちが落ち込んでいると自己分析していました。
しかし今回「根治」ということで、医者からは、定期的な検査で診察室に座っているときだけ心配し、ほかのときは忘れるよう指示されたので、前向きに考えるようにします。

もともと、九年前の元の癌で右腎臓をとってから疲れやすくてしんどいということはあったのですが、このかんさらに、抗がん剤と、男性ホルモン不足とで、毎日ダルかったです。この夏はそのうえに、気持ちが沈んでいたので、とりわけしんどかったです。
抗がん剤も打たなくなったし、男性ホルモンも補充するし、一応「根治」と言われたしということで、これからは元気になっていくと思います。

お知らせ:レクチャー動画アップしています

さて、このかん、春学期に撮りだめたレクチャー動画を、毎日アップしつづけ、なんとか夏休みが明ける前にアップし終えることができました。

マクロ経済学入門講座

ひとつは、私の個人チャンネルで公開している「マクロ経済学入門講座」です。この春学期から、大学院生としてきてくれている、れいわ新選組の長谷川羽衣子さん相手のレクチャーを録画したもので、ときどき長谷川さんの声も入っています。
春学期とった15回分のアップは終わりましたが、しばらくまだ続く予定です。

今のところ、再生リストを三つ作っています。シリーズ4はまだ続く予定なので、まだ再生リストにはしていません。
超入門なところから始まっていますので、順番に見ていただければ全くの初心者でも大丈夫だと思います。シリーズ2からでも大丈夫だと思います。

続・数理マルクス経済学講座

もうひとつは、数年前に、京大熊野寮でのレクチャー動画を京大生が編集してアップしてくれていた数理経済学入門講座の「続編」です。春学期の、立命館大学と非常勤先の京都大学とで、ほぼ同じ内容の大学院講義をしていましたので、それを動画にしたものです。

ぜひご視聴いただき、拡散していただければ幸いです。

喘息で冷房いれないとコンピュータがとまる

私は喘息で冷房に弱いので、なるべく冷房を入れないようにしてすごしているのですが、この夏の暑さの中では、コンビュータがすぐ止まって仕事にならなくなってしまいます。
特に、会議や研究会がズームであると、テキメンにストップするので、しかたがないのでズームをつなぐときは冷房を入れます。すると、ズームがまともにつながるぐらいコンピュータを冷やすと、やがて喘息でヒューヒュー言い出します。つまらない会議は、早く終わってくれという気になります。

動画の編集がまた、コンピュータの計算量が多いらしく、暑いとしょっちゅうストライキを起こしてしまいます。
そこで、上記動画をあげているときは、毎日、朝起きたらすぐに朝のうちに編集作業を始め、なんとかして涼しいうちにアップし、夜寝る前に気温が下がった頃にまたアップするという毎日を繰り返していました。
しかし、やっぱり編集作業が長引いて、結局アップできるころには昼になってしまって、動きが遅くなって冷房を入れるということばかりでした。

癌は心配いらなくなっても、喘息は続きますので、これから気温が下がっていくと心配ではあります。

今日の本題:水着撮影会中止騒動の討論動画についてのコメント

はじめに——私たちがどんな態度をとるべきかの観点で

さて、春学期のあいだは忙しすぎて、持論を書かなければと思いつつ、書かないままになっていた話題がたまっているのですが、そんな中から

今年(2023年)6月に起こった、埼玉県営プールでの水着撮影会の中止騒動について、事件後早速、れいわ新選組の大石あきこさんとやはた愛さんが、意見の違いをオンラインでガチ討論している動画があります。

両者の意見の違いを放置して、支持者の間での内ゲバとかになったら大変でしたから、これで互いの主張や共通点への理解も深まり、未然に混乱も防ぐことができてよかったと思います。
しかし、再び同様のことに直面して党としての姿勢をとる必要が出た時に大丈夫なくらい議論が整理されたかというと、まだまだのように思います。
コメント欄などを見ると、二人は本質的に逆の意見のようにとらえている見方も多いようですが、私はこの動画を聴いて、基本的には両者はかなり重なっていると感じました。その上で、調整すべきコアの論点がどこにあるのかを整理してみたいと思います。

この問題は、県・管理当局のさまざまな対応のまずさや、一部の撮影会運営側に見られたルール違反や未成年者のモデル参加の問題などについては別にして、共産党さんの県議会議員が会場の貸出中止を申し入れ、実際中止になったことについて、成果として誇ったことが議論の的になっています。
共産党議員の申し入れが本当に中止の要因になったかは疑わしいと思いますが、要因になったかどうかはともかく、彼女たちの主張は、個々の主催団体のルール遵守姿勢や具体的なプール管理者側のルールに照らしてではなく、水着撮影会一般を「性の商品化」だからダメだとするもので、(本人たちの認識では)そうした判断による議員のアクションの結果として撮影会が中止になったことを、良いことだと評価した姿勢が、この世の抑圧を批判して民衆のために政治を変えようと運動する立場の者の判断としてどうなのかということが、問題の焦点の一つだと理解しています。

やはたさんが、この共産党さんの行動について終始「悪手」という、戦術を語るときの表現で批判しているのはこういうことだと思います。
この姿勢には私も全く同意するものです。私も、政治的方向性を概ね共有する者として、同様の事例に直面したときに、どのような態度をとることが適切なのかという観点から、この共産党の議員のみなさんの行動について批判的に検討してみたいと思います。

私たちは「性的」とされることにかかわる自由への抑圧と闘う立場だ

抑圧と自由の攻防の焦点

まず私たちが忘れてはならないことは、性的なこと、あるいは、本人はそのつもりがないのに「性的だ」とみなされることをめぐる問題は、これまでの歴史で常に、抑圧と自由の攻防の焦点だったということです。

大石さんも討論動画の中で触れている性教育バッシングは、その典型例だったでしょう。統一教会が音頭をとって、安倍元首相はじめ、国から地方までの保守系政治家が常軌を逸したバッシングのキャンペーンを繰り広げました。私たちのサイドの多くの人たちが、それに抗して、現場で血反吐を吐くような闘いをしていたはずです。

あるいは、石原都政による漫画・アニメ規制のための青少年健全育成条例の導入に対して、私たちのサイドは激しい反対の闘いをしてきたはずです。私は下にリンクする、当時の共産党さんの見解に、一点の異論もありません。

当時の闘いを知らない世代の人はぜひ上のリンク先を読んでいただきたいです。これを読み返すと、漫画やアニメは容赦無く規制の対象とする一方で、石原知事自身の執筆したエグい小説やその映像化作品、例えば、精神疾患のある女性を拉致監禁、集団レイプして殺害する描写を、批判的視点など全くなく記した小説などが、完全に規制の対象外となっているような条例であるだけに、この条例の理不尽さに対する怒りが蘇ってきます。

また、現代でも、ブラック校則で、「男子がうなじで興奮する」という理由でポニーテール禁止になったり、「外に透けて見える」という理由で下着の色が規制されたりすることに対して、私たちの側は異議の声を上げ、このような抑圧と闘う生徒たちを応援してきたはずです。

性役割分業と性道徳の保守的秩序

このようなことが、常に攻防の焦点になるのは、日本会議や統一教会が音頭をとる保守政界のイデオロギーにとって、保守的性道徳が格別に固いコアの価値観になっているからです。
というのは、彼らは、かつて支配階級の頭の中にだけ存在し、明治維新後になって、国民統合のために庶民にも押し付けた社会秩序を、何よりも大事なものと考えているのです。
すなわち、観念的な「イエ」という一種の財団法人を通じて私有財産が永続的に引き継がれ、生身の個人がそのための手段として縛られる仕組みによって、「おおきなイエ=おおやけ」が「イエ」を単位として国民を統制するシステム。これこそが、彼らが死守しようとしている日本社会の構造です。夫婦別姓反対にこだわるのも、トップの「イエ」たる皇室の男系世襲を守ろうとするのもこのためです。
この秩序が維持されるためには、生殖の管理が必要なので、保守的性道徳が持ち出されるわけです。

この問題は、女性差別に反対する立場の人たちにとっては、格別に重大なことです。なぜなら、上記の保守派が守ろうとする秩序にとっては、性役割分業が必要だからです。
その性役割分業というのは、多数の女性にとっては、家庭の中で家事、出産・育児を担うということです。しかしそれだけではありません。
「イエ」を通じて私有財産を存続させるためには、子供が確実に家父長の子でないといけませんので、家庭の中で家事、出産・育児を担う女性は、性的に「潔癖」な性格であることを求められます。そして、娘たちもそうであるように育てられることになります。
しかし、すべての女性がそうなってしまっては、男の側は困るわけです。

かくして、一部の少数の女性は、もっぱら男性の性の対象となる役割を担い、それにふさわしい容貌・性格になることを求められることになります。
これは、世に必要なこととされる一方で、彼女らの存在、営みが、公然と表にでることで、家庭の中で家事、出産・育児を担う女性や、将来そうなるはずの娘たちが、その感化を受けることは、避けるべきことになります。
よって、彼女たちの存在や、性にかかわることは、日陰の、蔑まれるべきものとされてしまうわけです。すなわち、女性を抑圧する性役割分業システムの中に、性にかかわることや人を、表の社会から排除して蔑視する構造が、不可欠の一環として含まれていることになります。
それゆえ彼らは、ちょっとでも性的に見えかねないことが女子供の目に触れないように、過剰に排除することになるわけです。
(ちなみに、性的少数派の人たちも同じ位置づけにされるのだと思います。)

こんな中で、昔の女性たちは、自分のしたい格好も自由にできずにがんじがらめにされてきたわけです。ビキニみたいな格好で人前にでるなんてとんでもなかった。それが、だんだんと、したい格好ができる世の中へと変わってきたわけです。
それにあたっては、フェミニストの人たちはじめとした多くの人たちが、個性を自由に表現して何が悪いと闘ってきたことを忘れてはなりません。隙あらばすぐに、統一教会とか日本会議とかが音頭をとる保守勢力が、事態を元に戻そうと手ぐすねひいています。

それゆえ私たちは、女性というものを男性にとっての性の対象とする差別と闘うとき、かえって私たちがこれまで闘ってきたこれらの抑圧、特に、性にかかわる(とされる)ことや人を、表の社会から排除する抑圧を強化する結果になるのではないか、私たちのやっていることに統一教会が手を叩いて喜んでいるのではないかということに、常に注意を払わなければならないのだと思います。

政治表現の規制につながりかねない問題

それから、討論動画で、やはたさんは、今回のような表現規制が、政治的表現の規制につながりかねない危惧を語っていました。
これは、大石さんも否定しなかったとおり、そのとおりだと思います。

水着の規制と政治表現の規制との間には一見距離がありそうですが、えてしてこういうものは、時間がたつにつれて権力者の都合のいいように拡大していって、やがてみんな首が回らなくなるというのが歴史の教訓です。

なんなら、中には全然距離のない事例もあります。真冬にもビキニ姿でイラク派兵反対をアジり続けた増山麗奈さんの伝説の闘いは、映画にもなったようなのでご存じの方も多いでしょう。
そしてインリン・オブ・ジョイトイさんの普天間で撮った勇姿も。(ネットを探したが画像が見つからなかった…当時ダウンロードしておけばよかった。)
あるいは、欧米の大衆増税反対集会では、たびたび白馬に乗ったゴダイバ夫人が現れるそうです。さすがに肌色スーツみたいですけど。
こういうのを弾圧させてもいいのかといのは、今でもただちに問題になると思います。たしかにレナさんは、格好を理由にしてたびたび警察に排除されていたみたいだし。

水着撮影会への正当な違和感はどう言語化すべきか

違和感は正当——割烹着女性の撮影会の仮想例

しかし私はその一方で、討論動画の中で、大石さんが水着撮影会に表明した違和感は、本来は正当なものだと思っています。共産党の県議さんたちの感じた違和感も同じなのだろうと思います。
ただそれに、「性の商品化」という理由をつけることがよくないのだと思っています。本当の問題の焦点からズレてしまう上に、上記の通り、かえってこの世の抑圧に加担してしまいかねないと思います。

違和感が本来正当だと私が考える理由は、以前このノートで公開した記事

で、なぜ公的機関が巨乳美少女をキャラに使ったらアウトなのかを説明したとおりです。

こんなイベントが興業として成り立つとは思いませんが、たとえとして言えば、「割烹着の女性の撮影会」というものを想定してもらえばいいです。違和感を感じないでしょうか。それと同じということです。
この「割烹着の女性の撮影会」に感じる違和感の正体を探ってみましょう。

前述の性役割分業秩序のもとでは、女性は基本的に良妻賢母主婦になれという圧力にさらされることになります。現在においても依然、さまざまな社会的活躍の選択肢が、男性と比べるとハンデがあって制限されている現実があります。
それに加えて別の要素として、30年に及ぶデフレ不況、労働の非正規化、小規模事業淘汰によって、就業の機会はますます狭くなり、しかもしんどい、条件の悪いものばかりになっています。
それゆえ、本当に自分の個性と内発的欲求にあった道かどうかにかかわりなく、伝統的な良妻賢母主婦として世の承認を受ける人生を、女性たちに志向させる圧力は、依然として強いと言わざるを得ません。

女性差別に反対する運動は、こうした圧力に対して抵抗し、この構造を覆そうという闘いを、重要な争点のひとつとしてサポートするものでなければなりません。
その目から見ると、割烹着の女性の撮影会などというものが本当にあったならば、それは意図する意図しないにかかわらず、良妻賢母人生をすべての女性に強制する社会的圧力の一環と位置付けられるでしょう。それが違和感の正体ということになります。

性役割分業意識が解消され、社会的活躍の選択肢に女性であるがゆえのハンデがなくなり、しかも不況も克服されて、誰もが自分の個性を自由に活かして活躍する人生がおくれるようになっていくにつれて、良妻賢母として世の承認を受ける人生も、それが個性にかなった人たちだけが、内発的欲求にしたがって自由に選ぶものになるでしょう。
そうなるにつれて、割烹着撮影会は、純粋にそれが好きでやっている人のイベントになっていき、そうではない女性に対する抑圧性は解消されていくでしょう。

個人の自由な生き様への抑圧になるから

水着撮影会もこれと同じなのだと思っています。
つまり、性役割分業秩序の中では、女性に開けた道で、なおかつ良妻賢母人生でない道といえば、それは、いろんなレベルで男性の性的な目線に評価される道ということになります。
さまざまな社会的活躍の選択肢が、男性と比べるとハンデがあって制限されている現実に加えて、30年に及ぶデフレ不況、労働の非正規化、小規模事業淘汰によって、就業の機会が狭くてしんどいものになってくると、やはり、本当に自分の個性と内発的欲求にあった道かどうかにかかわりなく、そっちの方向で世の承認を受ける人生を、女性たちに志向させる圧力がかかると言わざるを得ません。

そればかりではなくて、良妻賢母側の女性に対しても、女性というだけで容貌で世の承認を受けることを迫る圧力はかかっているわけで、それに抑圧を感じている人たちがたくさんいることは間違いありません。これは、討論の中で大石さんが指摘したとおりです。

このような社会の構造の中におかれた場合、水着撮影会は世の女性全体にむけたこうした圧力の一環を担う機能を果たすことになるわけです。これが違和感の正体なのだと思います。
だからこれは、基本的にはアイドル歌手にもモデルにもあてはまることです。選挙の女性候補者に美人ばかり立候補させる風潮があったとしたら、それにもあてはまる。

特に、討論動画で大石さんは、露出度の高い水着の女性が過激なエロポーズをとる前に、男性の撮影者たちが群がるシーンへの違和感を、自分の娘に見せられないと表現しました。これは、実際に子どもの目に触れないようにゾーニングされているかどうかが問題なのではなく、子どもも含む世の女性一般に、「(今の社会・経済状況のもとでは)くすぶっている貴女も、こうするなら輝けるよ」と、同様に男性の性的対象となる生き方へと誘引していることの問題を、直感的に感じ取っているのだと理解しました。
共産党の県議さんたちも、同じシーンで本当は同様の違和感を感じたのではないかと思います。

しかしそれを、「性の商品化」というように、当事者の頭越しにその意識とかかわらず本人を犠牲者扱いして上から目線で救うような言い方で表現すると、やはたさんが強調するように、当事者にとっては反発しかでないのです。
もちろん実際には仕方なくやっている人もいるだろうし、そのことももちろん問題なのですが、本当の問題の焦点は、広く男性の性的対象、性的まなざしの対象となる生き方へと、ホントの本心に反して流れてしまう女性や、容姿などのために流れることができないことに劣等感を感じて苦しむ女性を生んでしまうことにあると思います。

もちろん、これは、グラドル当事者の責任では断じてなく、社会全体の構造の問題です。そもそも当事者にとっては、安易に大量に流れてきてもらったらギャラが下がって困ります。矜持のない同業者が増えて業界全体の評判が下がるのも嫌だろうと思います。本当に自分の個性にかなった内発的意欲を持った人にだけきてほしいというのは、当事者にとっても望みでしょう。

この場合もやはり、性役割分業意識が解消され、社会的活躍の選択肢に女性であるがゆえのハンデがなくなり、しかも不況も克服されて、誰もが自分の個性を自由に活かして活躍する人生がおくれるようになっていくにつれて、いろんなレベルで男性の性的な目線に評価される人生にしても、容貌で評価される人生にしても、それが個性にかなった人たちだけが、内発的欲求にしたがって自由に選ぶものになるでしょう。
そうなるにつれて、水着撮影会もまた、純粋にそれが好きでやっている人だけのイベントになっていき、そうではない女性全般に対する抑圧性は解消されていくでしょう。

一言で言うと、「割烹着の女性の撮影会」のたとえと同じく、「水着撮影会」の場合も、一定の社会状況のもとにおいては、世の女性に対して「女らしくあれ」と人の人生を型にはめる圧力を担うことが問題だということです。つまり、個人の自由な生き様への抑圧になるからということが、違和感の正体ということです。

「商品化」を批判の切り口にするのはズレている

両者の見解の違いの焦点

これに対して、「商品化」という言葉で批判の理由を立てようとすると、いろいろとまずいことになると思っています。
共産党さんのように「性の商品化」と言ったら、上述した保守的性道徳に基づく抑圧の後押しをしてしまうというのもそうですが、大石さんも「商品化」一般が、表現活動において個性の自由な発揮を妨げるものであって、公的規制を必要とするものであるとの論の立て方をしていて、そこがやはたさんとの間の違いの焦点になっていると思いました。

大金の影響力を規制するよりましな「商品化」が目の前の課題

商品化が自由な個性の発揮の妨げになるのは事実ですが、それに対しては三点考えるべき論点があります。
一つは、そうはいってもすべてのものが商品化されることで成り立っているこの社会は、私たちの目の黒いうちは変わりそうにないので、それを前提とした上で、人々のニーズにかなったものが評価されて報われて広がるという商品生産のメカニズムの機能をいかに歪ませずにワークさせるかということが、目の前の課題としては重要になるということです。

人々が手にしている貨幣という「投票権」がみな平等ならば、人々のニーズを反映したものが報われて広がるかもしれませんが、実際にはそうではありません。大企業が民間銀行の信用創造を受けて大金を手にすると、膨大な「投票権」を一手に握ることになります。大金持ちもそうです。
世の中の表現活動には、マスコミとか、大手スポンサーとか、国家プロジェクトを牛耳る一部の人とか、そういう大金を使う一部の人の意向によって、個々の表現者の内発的個性が妨げられて、本来の人々のニーズにかなっていない方向に歪められてしまうことがよくあります。

それは「商品化」の弊害には違いないけど、当面は、それに対しては、一部の者が巨額の影響力を行使して需要を歪めることを民主的な公的合意で規制・コントロールし、人々のニーズがなるべく歪まずに需要に反映する、「よりまし」な商品化の方向を示すことが重要になると思います。この意味での「規制」は必要なことだと思います。

「商品化」以外の抑圧も深刻

二つ目に、このようなテーマについては、「商品化」以外の抑圧もあるし、そっちのほうが深刻な場合もあるということです。
もちろん、金の力ではないあからさまな暴力としての政治権力が表現活動を歪ませた事例はいくらでもあります。性的なことや、性的とみなされることがからむと、因襲や、血縁共同体や、家父長支配や、ムラ社会の抑圧が、個性の自由な発揮に対していくらでも襲いかかってきます。ドライでサバサバした金銭関係になったほうが、百万倍もマシということはたくさんあります。
もっと問題なのは、ブラック企業にしてもジャニーズ事務所にしても家元や師範と弟子の関係にしても、弱者の側は商品関係ではないウェットな恩顧・忠誠原理や共同体意識で縛り付けておきながら、それを利用して強者の側は弱者を犠牲にした商品化で大もうけするということが多々みられるということです。このようなところでは、商品化批判のウェットなもの言いが、こうした縛り付けを強化してしまうということが往々にしてあります。

それから、水着撮影会について言えば、後述するとおり、商品ではなく、公が主催する、無償で撮影できるイベントにしたほうが、よほど問題は大きくなると思います。

「強烈な個性」論について

三つ目は、たとえ人々のニーズを極力反映した商品化がなされたとしても、多くの人々の評価にかなった表現を目指すこと自体が、表現者の自由な個性の発揮への抑圧になるのではないかということをめぐる論点です。大石さんが、商品化されないところではじめて、「強烈な個性」が発揮できるとおっしゃっていたのはこのことだと思います。
大石さんは、上記一つ目の論点と、この三つ目の論点をあまり区別せずに「商品化」と言っていたので、本来やはたさんにも同意されてしかるべき一つ目の論点についての同意点が作られずに終わった感じがするのですが、両者は区別して論じられるべきことです。

なぜなら、この三つ目の問題は、たとえ商品生産が克服されて、すべての生産が民主的協議にもとづいてなされる理想の社会主義になったとしても、なお存在する問題です。ですから、実は「商品化」の問題として論じるのは適切ではないと思います。
それに、一部の強者のことではなくて、一般大衆が表明したニーズに対して、それはダメだから規制しなければならないと上から目線で裁断することには、極力慎重であるべきだということも、心にとめておく必要があります。

この「強烈な個性」論に対してやはたさんが、「大石さんは、私が男に媚びた服装をしたらダメで、全裸になったらいいと言うのか」と皮肉っていましたが、実は結構うまいこと言う例だと思いました。もっとも、やはたさんの全裸は我々下卑なおじさんたちはみんな喜ぶと思いますが、中には不快に思う人もいるに違いないと思いますので、やはり例としては適切ではなくて皮肉でしかないと思いますけど。
もっと適切な例はこうだと思います。

きれいな字を書く習字のコンテストを、市のような公的なところが主催して、みんなが整ったきれいな字だと認めるものを表彰するというようなことをすることは、私は不適切だと思います。字がきれいに書けない障害というものは存在していて、きれいな字を書かなければとする圧力に苦しんでいる人たちも実際いるのですから。
障害とまではいかなくても、きょうび電子テキストでたいがいのことは書くことができますので、きたない字だってその人らしい個性であって、世の中できれいとされる字を強制されるいわれはないはずです。
これは「商品化」ではないのですが、同様に、なるべく多くの人の評価を得ようとする方向に駆り立てることで、個性を抑圧する事例だと思います。

しかし、凡人には何が書いてあるのかわからない、そもそも字なのかどうかすらわからない芸術的な墨使いがされている書道のイベントの場合は、そんな抑圧はないのです。それこそ、誰も困る人のいない、「強烈な個性の発揮」になります。
しかしなかなかそんな作品は商品として成り立たないので、たしかに、たいていは商品化のされないところでなされることになると思います。
大石さんが言いたいことをなるべくうまく表す例をあげたら、こんな感じになるのかなと思いました。

このような「強烈な個性」は、そもそも「商品化」のあるなしにかかわらず、生活するためにはやむを得ず取り結ぶ人間同士の社会的な相互依存関係の中では十分に発揮できません。そういう、食っていくための関係の外の自由時間ではじめて十分に自由に発揮できることになります。
それゆえ、こうした活動を伸ばしていくためには、安心できて、余裕のある暮らしが誰にでも保障され、職を失う恐れもなくなったうえに、自由時間が十分あることが必要になります。それは結局経済政策の問題になります。もちろんそれは、れいわ新選組が目指すものだと信じています。

このように見れば、「強烈な個性」論もやはたさんにとっても特に違和感のない話になるのではないかと思います。

業界の闇と闘うことは業界をなくせということではない

ところで、大石さんはこのように「商品化」という観点を論拠に持ち出してしまったために、問題の本質を適切に表すことに成功しなかったと思うのですが、やはたさんのほうも、その「商品化」というキーワードをまともに受け取って、「商品化」ではないということを強調する返し方をしたために、議論の混乱を招いたところがあると思います。
それは、出演者が、自発的な意思で矜持を持ってやりたくてやっているのだということを強調するために、ギャラが安いことをその根拠として肯定的に言ったことです。
それに対して大石さんからツッコミが入ったのは当然のことだと思いますが、そもそも「商品化」という問題の立て方が間違っていたのだから、それに対してこういう返し方をする必要もなかったのです。

災害ボランティアの人たちも、お金が目的ではなくて、無償でも矜持を持ってやりたくてやっていると思います。私も大学院生時代障害者の介護をしていましたけど、わずかのお金は出ていましたが、それは全然目的ではなくて、ボランティアのつもりでやりたくてやっていました。
(日頃の講演も、お金が目的ではなくて、言いたいことを言える機会をいただけて、ありがたくやらせていただいています。)

しかし、行政の側が、災害ボランティアや介護ボランティアが活動していることにあぐらをかいて、本来ケチらず十分にお金をかけて、プロとして人を雇ってやるべきことを、やらずに放置していたならば、それは責められるべきことです。

今この日本では、アイドル歌手でも、福祉の職場でも教育の職場でも、いわゆる「やりがい搾取」が横行しています。みんなその仕事がやりたくて、やりがいをもって働いているのですが、経営側がそのことを利用して、賃金を抑えてこき使っているわけです。それは許されるものではありません。

グラビアアイドルについても同様のことがあったとしたら、同じことだと思います。アイドル歌手でそんな事例が頻発しているのですから、当然あるでしょう。
上述の拙記事でも、アメリカの黒人のたとえをあげたように、黒人が他の職業で差別されてスポーツやエンタメでは輝ける構造によって、スポーツやエンタメに流れてくることで、それにつけこんで業者が搾取する現実があるとすると、それを批判して闘うことは必要なことです。だからといって、スポーツやエンタメの興業が禁止されるべきだという話にはならないことは明らかです。
女性差別の構造の中で、ここでなら輝けるかも、食っていけるかもと流れてくる人が多ければ、値は崩れるし、そのうえ「やりがい」で言うことを聞かせられるなら、搾取の余地はふんだんにあります。差別の構造からくる脆弱性につけこんで搾取する者は差別者であり、闘いの対象とすべきです。
だからといって、業界や興業自体が禁止されるべきだという話にならないことは、黒人にとってのスポーツやエンタメの業界のたとえと同じです。

討論動画では、アメリカの俳優が労働組合を作ってストライキをする例があがっていたように記憶しますが、同じように、日本のグラビアアイドルも、みんな労働組合に団結して事務所と交渉するようになったら、すばらしいことだと思います。

私たちの側はどうすべきなのか

割烹着女性撮影会の仮想例で考えてみる

さてでは、今回問題になったような事態に際して、私たちはどのような行動をとるべきでしょうか。

これも、「割烹着女性撮影会」を想定して考えればわかりやすいと思います。

ポイントは、これは、ある社会状況の中に置かれると、世の女性に性役割分業を押し付けるという、特定の政治的メッセージになるということです。ただし、これはその社会状況のせいであって、さしあたりはメッセージ自体に意図を持ってやっている責任者を特定できません。そして社会状況が変わると、徐々にそういう政治的メッセージの性格がなくなっていくこと、そして、このメッセージをどれだけの影響力を持った主体がどれだけの組織性・意図性を持って言うかということが、その社会状況の変化自体に影響するということが、特異です。
その点で、民族差別のような、社会状況にかかわらず、また、誰が言うかにかかわらず他者に被害を与え、その責任者が行為者として特定できるものとは違います。

まず、公の直接の主催・共催だったり、公の補助金の入った事業だったりした場合には、「言語道断、断固やめさせる」でいいと思います。それは、このメッセージを公的にオーソライズして、公の責任で公権力で意図的に押し付けることだからです。多数の業者の合成結果が意図せずして効果を持つという話とは次元が違ってくるのです。
いろいろな立場の人が無差別にいるような、企業、病院、学校などが、宣伝や資金の提供などの形で協力することも、やめさせる運動をすることが必要でしょう。この場合も、準公的な大きな影響力を持ったところがオーソライズすることになるからです。

(注:こんな珍妙な仮想例を離れ、伝統的な芸能、祭りなどに、性役割分業や固定的な「女らしさ」の表現があって、それを公が主催、後援していた場合どうなるだろうか。よく話し合ってみんなが納得のいく答えを見つけるべきであるが、そのままの形で行われる場合であっても、現実の性差別的構造が続く間は、公衆が時代的文化的背景を理解するように説明して、現代の日常社会への影響がないように努めるのが公の責任となるだろう。注終わり)

それに対して、純粋に民間でやっているかぎりは、状況次第でトーンを変えつつ、あくまで世論の中のひとつとして、公の力は借りずに批判するべきでしょう。批判と言っても、出演者を責めるのではなくて、構造の指摘ということです。そのうち性役割分業の圧力のない社会になれば、特に批判する必要もないことになります。
また、居酒屋にポスターが貼ってあるなど、女性一般ではなくて居酒屋で仕事をしている人が対象とみんなが思うような状況では、特に問題にすることでもないと思います。

今回のケースのように公の施設を正規の料金を払って借りて実施される場合、その貸し出しをやめさせるかどうかについてはどうでしょうか。
特定の政治主張をする集会が認められるような場所の場合は、このケースもまた無意識にしろ同様の特定の政治的主張をするイベントのひとつということになるので、貸し出しをやめさせるというわけにはいかないと思います。やはり、世論の中のひとつとして、公の力は借りずに批判するということになると思います。
他方、特定の政治主張がされることは想定していないような場所の場合は、状況次第では、貸し出しをやめさせる運動が必要になるケースもあると思います。例えば、統一教会や日本会議などが、政治家を動員して良妻賢母キャンペーンをしている状況の中で行われる場合はそうです。それは、くだんの政治的メッセージが無意識の合成結果ではなくて、意図性を帯びていて、それを公がサポートする形になるからです。
もちろん、やはり性役割分業の圧力のない社会の中であれば、特に批判する必要もないことになります。

そして、そもそもの問題の根源である、さまざまな社会的活躍の選択肢が、男性と比べるとハンデがあって制限されている現実を変えること、不況を克服し、労働の非正規化や小規模事業淘汰をストップして、まっとうな就業の機会がすべての人の前によりどりみどりで広がっている世の中を作ることが、何よりも大事だということになります。
そうやって、そもそもこんなことにめくじらを立てる必要のない世の中を私たちは目指しているのですよということが人々に共有されていないと、自由の擁護者としての信頼を得ることは難しいでしょう。

水着撮影会のケース——一律に貸出中止を求めるのは悪手

水着撮影会の場合は、エッチなことをめぐる様々な議論に巻き込まれるので問題がぼやけてしまうのですが、私たちにとっての本質は、上に述べた割烹着撮影会のケースと全く同じだと思います。同様に判断すればいいことだと思います。
ただし、水着撮影会の場合は、上述の伝統的性役割分業秩序における女性の二分法を、崩している効果はあるわけです。これもありなんだ、自分がしたい格好をしていいのだと、「表」の世界にアピールする効果はある。その点では、個人の自由を促進する面もあります。
これに対して、下手な批判をすると、ちょっとでも性的なこと、性的とされることにかかわるものを、裏の必要事として表の世界から排除する秩序の強化に加担してしまいます。
なので、割烹着撮影会と比べると、一段緩い方向で考える必要があると思います。

もちろん、公の直接の主催・共催だったり、公の補助金の入った事業だったりした場合には、全く上記の例のとおりで、やめさせる方向でいいと思います。それは、以前の拙稿で、巨乳美少女キャラを公的機関が使ったらダメだと言ったのと同じです。

しかし、他のイベントと同じ正規の料金で会場を貸すだけの公の関与の場合については、水着撮影会の場合は、性役割分業秩序を守る側からの意図的な称揚キャンペーンのようなものは、彼ら自身の自己矛盾になるのであまり考えられません。
それゆえ、貸し出しをやめさせるべき切迫性が生じることはないだろうと考えられます。一般的には、公の手を借りない世論のひとつとしての批判が適切だろうと思います。もちろん、基本的には構造の指摘としての批判です。個々の問題点は、個々の問題点として取り上げればいいということです。
(公の貸す会場で、すべての水着撮影会主催者が一堂に会するようなイベントが行われたりしたらかなり微妙ですが。)

共産党の県議さんたちの場合、ネット上で見られる話では、未成年のモデル参加についてのタレコミを受けて起こしたアクションのようです。まあ、もしそんな情報を聞いて、ネットを調べて、過激な格好とポーズに男性撮影者が群がる画像を目にしたりしたらと思うと、全部中止させろという気持ちになるのもわからんでもない。
しかし、これがたとえばダンスの撮影会興業で同じことが起こったとしたら、同じ反応になっただろうかと思います。個々の問題は個々の問題として取り上げたのではないかと思います。
やはり、水着撮影会というもの自体に対して、「性の商品化」という理由で一律に会場貸し出し中止させるのは、「性的」とされるものをすべて表の世界から排除しようとする保守的性観念とシンクロしたところがあったがゆえでなかったかと思います。それは「悪手」と言わざるを得ません。
現状の社会状況のもとにおける機能に対する批判的指摘はした上で、一律の貸出中止を求めるのではなくて、個々の問題は個々の問題として取り上げることが適切だっただろうと思います。

実際の結果について

さて、現実の埼玉県営プールの問題では、水着撮影会の許可ルールを改めて作って仕切り直しになったようです。
露出の高い過激な水着が禁止になったり、未成年者の参加に制限がついたとのことです。

性的なこと自体がいかがわしいのが問題の本質ではないのに、そちらに向けた対応がされたことは、一般的には表現の自由の規制という点で警戒すべき側面を持つかもしれません。
しかしこのケースの場合、やはたさんのお話の中にもあったように、多くのグラドルが、性的なことをしているつもりはなくて、過激な水着を着たいとも思わないのに、撮影者の列を獲得する競争に強いられて、どんどん過激なことをしないといけないようになってしまうという事情があるようです。その場合は、今度のような規制が、各自の個性を発揮した、したい格好で表現活動をする自由を守ることになったとも言えます。

いずれにせよ、今後、このような問題についての規制のありかたに関しては、当事者の声を聞いて十分に話し合うことを求めていかなければならないし、共産党さんもれいわ新選組も、そういうヒアリングや話し合いの機会を作って方針を考えていかなければならないと思います。討論動画でもそういう結論になっていたように思います。

なお、余談ながら、未成年のモデル参加について禁止することは私もいいと思うし、やはたさんもそのようですが、やはたさんがその理由として討論動画の中で、まだ判断力が成熟していないという理由をあげていたのは、ちょっと「悪手」かもしれないと思いました。
というのは、政治集会やデモへの未成年の参加を批判する論理として使われかねないと思うからです。
私が考える理由づけは次のとおりです。

まず、選択肢の選択を間違うことは、未成年も大人も同じぐらいあって、判断力にそれほど違いがあるとは思いませんが、大事なのは、これは自分の望むものではなかったと悟った時、また元に戻って選び直せることです。これができない選択は、一般に公の規制を受けるのだと思います。例えば、薬物や、生命や身体を失う契約などです。
そうすると、現実問題として男性たちの性の対象として使われる可能性が高い選択肢を、それとわかって選んだとしても、やっぱりこれは自分の望むものではなかったとなったときに、また元に戻って選び直せるかというと、年齢が低いほど心の傷は元に戻らないのだと思います。
また、自分のやりたいことができる選択肢を広げて、人生の自由度を上げるには、やはり特に子どものころに、多少なりともそれなりの努力をする必要があると思います(それが学校の勉強と必ずしもイコールとは限りませんが)。しかし、中学生で水着撮影会に出ると、その場では中学生というだけで圧倒的承認を受けてしまって、これでいいと思ってしまうのではないかということが危惧されます。それが結果的に人生の自由度を狭めてしまう危険を避けなければならないということだと思います。