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【短編】とわの麦

 療養所から続く野道を歩いていると、行く手に広大な麦畑が現れた。
 金色の穂が丘陵を渡る風で一様になびき、さわさわと囁くような音を立てている。雲が散った空とのコントラストで地上はくっきりと輝き、まるで見事な油絵の中にいるような心地がした。

「見て」わたしは麦畑を指さした。「風の通り道が見える」
 斜め前を歩く彼も目を細め、風に撫でられる麦畑を眺めた。
「いつ見ても、ここはすごい。まるで海みたいだ」彼は言った。しばらく黙っていたから声が掠れていた。「そろそろ、刈り入れの季節だね」
 そうか、もうそんな季節か、といまさら思い出す。今朝起きて、半袖のブラウスに腕を通したときでさえ、わたしはいまが初夏であることを忘れていた気がする。
「ここに来たばかりの頃、麦踏みをしているのを見たことがあるんだ」
「麦踏み?」わたしは訊く。
「畑にずらっと人が並んでね、いっせいに麦の芽を踏んでいくんだよ。僕もよくは知らないけど、そうすることで麦が冬の寒さに耐えられるようになるんだってさ。最初は、せっかく芽が出たのになにをしているんだと思ったけどね。それをしなくちゃ、良い麦が育たないんだ」
 わたしは、彼が語る一言一句にじっくりと耳を傾けたいと思う一方で、ふいに苛立ちにも似た気持ちを抱いた。
 なぜこんな話をしているのだろう、と思ったのだ。
 もうあまり時間は残されていないのに、どうしていま、麦の話などしなくちゃいけない? こんな話をしている場合じゃないはずなのに……。
 でも、そうして焦れば焦るほど、わたしが放つべき言葉たちは沈黙の泥濘に沈んでいった。そして、それはきっと彼も同じだった。彼もまた、なにか大事な言葉を口にするかわりに、目の前の麦畑について訥々と語るだけだった。
 彼はわたしの斜め前を歩き、一定の距離を保ち続けている。もっと近くにきて、と言いたかったが、わたしはどうしても口にできなかった。自分の病が許嫁のわたしに伝染することを、彼はなによりも恐れていたからだ。
 目を逸らすと、青い影を纏う山の上空にひときわ大きな雲が立ち昇っているのが見えた。風はそちらから吹いてきているようだ。
 ひと雨、来るかもしれない。
 わたしは手に持った傘を落ち着かない気分で軽く振った。

 ◇
 
 療養所でわたしを迎えた彼は、前に会った時よりさらにやつれたようだった。骨の形がわかるくらいに腕が細くなって、青白くこけた頬が翳を作っていた。子供の頃から知っているはずなのに、まるで誰か別の男になってしまったかのように思えた。
 高等学校に入学した二年前の秋、彼は血液に関わる重大な病に罹った。まず治る見込みのない病だった。入院を経た後、彼が故郷の町を離れ、この山間の療養所にやってきたのは去年のこと。そして、彼に残された時間が長くてあと半年だとわたしが主治医に聞かされたのが、つい先月のことである。
 その宣告の場に彼はいなかった。本人にはまだ伝えていない、と医師は言っていたが、何につけても勘の働く彼が、己の行く末に気づいていないはずがない。しかし、彼は、わたしの前では気づいていないふりを続けている。やせこけた頬に昔と同じ優しい笑みを浮かべて、見舞いにきたわたしを出迎えてくれる。
 その切ない笑顔が、わたしの言葉をますます体の奥底へ沈ませるのだった。

 ◇

 途切れることなく続く麦の海を眺めながら、わたしたちはあてのない散策を続けた。野道はいつの間にか乾いた舗装路に姿を変えていて、ほんの一瞬だけ、子供の頃に嗅いだ町の匂いを思い出させた。
 風が湿り気を帯びて、だんだんと強まっていく。はためきそうなスカートを押さえながら、わたしは歩き続けた。灰色の雲のかけらが時折、陽射しをすっと翳らせ、その度に辺りは不吉な暗色に染まった。
 やがて大きな雲が圧しかかるようにして空を覆うと、まもなく最初の一滴を地上に落とした。大粒の雫がぽつぽつと続き、濡れたアスファルトは蕩けるような甘い香りを漂わせた。
 わたしは慌てて療養所の貸傘を開く。しかし、手ぶらの彼は仄暗い空を見上げたまま、変わらずに距離を保ち続けていた。わたしが逡巡する間にも雨は激しさを増し、すぐに飛沫が舞うほどのドシャ降りになった。
 わたしは堪らずに言った。
「早く入って」自分でも戸惑うほどの固い声色だった。
 ずぶ濡れの彼の顔に、深い狼狽が浮かんだ。なにか言ったようだが、雨音にかき消されて聞こえなかった。
「早く」わたしは辛抱強く繰り返す。
 彼はじっとわたしを見つめてから、肩をすぼめて傘の下へ入った。隣に立つと、もうわたしを見なかった。そっぽを向くように、驟雨に煙る麦畑へ空虚な視線を彷徨わせるばかりだった。

 ◇

 少し歩いた先に古びたバス停小屋があって、そこで雨宿りすることにした。小屋の中は薄暗く、農具置き場のような匂いがし、土台に木板を据えたベンチが一つあるだけだった。
 彼の顔をハンカチで拭ってやろうとしたが、彼は首を曲げてそれを避けた。
「自分で出来るよ」
 わたしは無言で頷き、ハンカチを渡してからベンチに座った。
 彼は不器用な手つきで顔を拭うと、小屋の戸口にぼんやりと佇み、舗装路の向こうに広がる麦畑を見つめた。濡れそぼった麦畑は輝きを失い、雨に打たれてくすんでいる。
 屋根を打つ雨音に耳を澄ましながら、なぜかわたしは、麦踏みについて漠然と考えていた。踏みつけられて強くなる麦の芽……、そうして厳しい冬に耐え、春を迎えて穂先を豊かにするという。
 人間と同じだな、と思う。
 まっさらなままでは強くなれない。
 否、まっさらなままでは許されないのだ。
 産まれた赤ん坊が泣き叫ぶように。
 背が伸びると骨が痛むように。
 たくさん叱られて大人になるように。
 どんな道にも、必ず何らかの苦しみが伴っている。嫌だと喚いてもどうにもならないことぐらい、わたしだって承知している。それはどうしたって抗うことのできない法則なのだ。
 だけど……。
 なぜ皆、それを正しいことだと信じ切れるのだろう?
 どうして、そう簡単に割り切れる?
 まっさらなものを見つければ、よってたかって踏み潰し、これはお前の為にやっているんだと口を揃える。早く大人になりなさい、強くなりなさい。そう言って、自分たちと同じ色と形に仕立てようとするのだ。それは、もしかしたら、本当に正しくて優しい行為なのかもしれない。大人になるというのは、あるいはそういう意味なのかもしれなかった。
 でも、わたしは、そこまで正しく優しい人間になれない。
 誰かに対してそんなふうに振る舞いたくもなかった。
 それでもいつか、わたしも彼らと同じようになるのだろうか。平気で誰かを踏みつけて、「これはあなたの為なのよ」と居直れる人間になるのだろうか。両親の言葉を無意識に思い出し、わたしは膝の上に置いた拳を固く握り締めた。
 麦畑を見つめる彼が、ぼそっとなにかを呟いた。
「え?」わたしはうっかり聞き逃してしまった。「なに?」
 彼はゆっくりとこちらへ向き、躊躇するように一度目を伏せると、再びわたしを見つめて、微笑むような形に口を開いた。
「僕が死んだら、僕のことは忘れてほしい」
 わたしは息を呑んで見つめ返し、それから思わず泣きそうになった。
 悲しかった。
 いつの日か、自分はそうするだろうと想像できたからだ。
 踏みつけられながら、いつかそれを受け入れてしまう自分が、ありありと思い浮かべられたからだ。
 わたしたちはもう、子供ではない。
 彼は残されるわたしの将来を案じられるほどに大人で、わたしはすでに永遠を信じていないくらいに大人だった。
 永遠を信じられない自分が憎かった。
 いっそ、子供みたいに泣いてしまいたかった。
 でも、それをすれば、彼を困らせてしまうのが痛いほどわかっていたから、わたしは目に滲んだ涙を引きちぎるようにして微笑んでやった。彼も微笑した。ずっと言いたかったことをやっと言えたように、笑っていた。

 気づけば雨は弱まり、雲の切れ目から光の柱が幾筋も地上へ伸びていた。濡れて黒ずんだ麦畑の上にもそれは降り、洗われた穂の連なりが金色の絨毯のように再び光を放った。小屋の薄闇に慣れたわたしの目に、世界は眩しく照り輝いていた。
 もたれかかっていた壁から、彼が肩を離す。促されるように、わたしもベンチから立ち上がる。どんな言葉もなかった。握りしめたチョコレートのように、わたしの大事な言葉たちは手の中でぐずぐずに溶け、感情だけがそこに残るのみだった。
 わたしは、歩き出そうとした彼の隣へ立ち、痩せて骨ばった手を握った。
 彼は驚いて身じろぎしたが、わたしはけして離さなかった。ただ無言で、その冷たく固い指に自分の指を絡ませていた。それが、わたしにできる唯一の反抗だったからだ。
 彼はなにかを言いかけた。しかし、すぐに口を噤み、寄り添うようにして歩いてくれた。わたしも彼に歩調を合わせ、できるだけゆっくりと、一瞬一瞬を噛み締めるように彼の手を感じていた。
 雨上がりの風が一陣吹く。
 視界に広がる麦畑が、ただ静かにさざめいていた。

 ◇

 季節が巡り、再び初夏がやってきた。
 麦畑は去年と同じように、青天の下に穂を実らせている。
 あの日に歩いた道を、わたしはいま、独りで歩いている。世界には失われたものがたくさんあるというのに、野道から見渡せる麦の海は、いまも変わらずそこに広がっていた。やがて刈り入れが終われば、種を蒔かれて芽を踏まれ、冬を越すとまた穂先を空に伸ばすのだろう。それをずっと繰り返す。それでも麦は繰り返すのだ。
 そこに永遠を見た気がして、思わず微笑がこぼれた。
 わたしが誰かの許へ嫁ぐのは、その何度目の年だろう?
 その何度目の夏に、わたしは彼を忘れるのだろう?
 それがいつであっても、こうして麦畑を目にするたび、わたしは彼のことを思い出すに違いない。どれだけ踏みつけられても……、いや、踏まれれば踏まれるほどに、ますます強く思い焦がれるに違いなかった。
 あの日と変わらない目の前の景色が、苦しくもどこか救われるようで、わたしはあのとき言えなかった言葉を囁くようにして放ってみた。
 風に吹かれた麦畑が、まるで応えるようにさざめいていた。


<了>



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※2017年頃執筆。
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(リビング・アトリエ|まつばらあや様)

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